ライフジャケット
その日、時化とまでは言わないが、波は荒かった。ベッドに横になる高杉だが、宙に浮いては、次の瞬間、奈落の底へ落とされるような感覚を幾度となく味わうことになる。中には早くも船酔いして、嘔吐する者もいた。
高杉は宮本のライフジャケットをそっと撫でた。彼の妻との姦通という後ろめたさがなければ、「一緒に釣ろうな」などとライフジャケットに語りかけていただろうと思う。だがこの時、高杉が宮本に語りかけることはなかったのである。高杉は苦しそうに寝返りを打った。船は荒波に揉まれながら、一路銭洲を目指している。寝付けない高杉はキャビンから出て、ふとまだ暗い海を見た。それは混沌の色を湛えていた。
船のエンジン音が幾分静かになり、減速したのは夜が白みかけてからであった。船長から「ポイントに着きましたので、準備をお願いします」とアナウンスがあり、皆一斉にキャビンから燻された穴熊のように出る。そして、竿を取り出し、仕掛けをセットし、釣りの準備に余念がない。無論、高杉も例外ではない。
波は依然、高かった。船は岩礁の周囲を何度か旋回して停まった。
「はい、どうぞ。水深四十メートル。底から五、六メートルにシマアジの反応が出ています」
船長のアナウンスを皮切りに、釣り人たちは一斉にビシにコマセを詰め始めた。そして、仕掛けを投入する。高杉は予報で波があることを予想していたため、三メートルの長い竿を持参し、その長さでウネリをかわそうとしていた。
皆、竿をシャクリ上げ、コマセを撒きながら魚を誘う。大きな波が幾度となく襲来し、船を大きく揺らした。高杉はふと思った。
(もしかしたら、宮本のライフジャケットを使うことになるかもしれないな……)
魚からの返事はすぐに来た。大艫(船尾)の釣り人がシマアジを釣り上げたのだ。コマセに魚が反応し始めたのだろう、それから船のあちらこちらで竿が曲がるようになった。だが、折からのウネリで取り込みには皆、一苦労しているようだ。
高杉の手元にもググググンという生命感溢れるアタリが到来した。同時に竿がひったくられる。高杉は電動リールの巻上スイッチを入れ、一気に魚を抜き上げようとしていた。水面下一メートルで銀鱗が光った。朝の太陽がシマアジの身体に反射して眩しい。