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ライフジャケット

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 そんな家庭でのやり取りがあって、高杉が早く帰宅する日数が増えた。ただ、遅くなる日は日付が変わってから帰宅していた。妻には「残業をする日はトコトンする」と言い訳をしていた。早く帰宅した日は家族団欒のひとときを過ごす。すると次第に妻の信子の機嫌も良くなってきた。無論、残業と称する日には恵美との情事を楽しんでいたのだが。
「なあ、今度、有給休暇を貰って遠征釣りに行きたいんだけど、いいかな?」
 高杉は焼酎を煽りながら、妻にそう申し出た。
「遠征ってどこまで行くの?」
「下田だよ。そこから船でだいぶ沖まで行くんだ」
 高杉が思い描いていたのは銭洲と呼ばれる海域への遠征釣りだった。そこではシマアジやカンパチといった、大型高級魚が数多く釣れる。
「飛行機で飛ぶわけでもないし、プチ贅沢ってとこだ。いいだろう?」
 高杉が観ていた野球を消し、せがむように言った。
「まあ、ここのところ早く帰ってきてくれる日も増えたし、いいんじゃない」
 妻の信子は洗い物をしながら、サラッと言った。その言い方が少しも嫌味ではなかったところに高杉は救われた思いがした。
「ありがとう」
 高杉はそっと妻に寄り添った。妻の口元が少し緩んだ。それは「しょうがないわね」とでも言いたげな笑いだった。

 高杉が下田に到着したのは二十四時位だったか。周囲は寝静まっていたが、港の前だけ、異様な熱気に包まれていた。銭洲遠征を志す者たちの熱気だ。出航の二時間前から遠征フリークたちは集い、紺碧の海に思いを馳せるのだ。
 高杉は車から道具を降ろし、そそくさと船に積み込んだ。そして、出航の時間までしばし仮眠をとる。だが、身体中にアドレナリンが駆け巡り、興奮した頭は眠りを許してはくれない。結局、出航まで高杉が眠りにつくことはなかった。
 午前二時に大型船は銭洲に向けて出航した。高杉は宮本の形見であるライフジャケットをしっかり着込み、キャビンでくつろいでいた。
 下田から銭洲までは悠に四時間はかかる。それまでエアコンの効いたキャビンのベッドでくつろげるのが大型遠征船のよいところである。しかし、釣り人の大半はまだ見ぬ大物との対峙を夢見て、寝付けないようだった。高杉もその一人である。
作品名:ライフジャケット 作家名:栗原 峰幸