ライフジャケット
食卓に高杉の分の夕飯は残されてはいなかった。
高杉は「はぁ」とため息を漏らすと、そのまま風呂へと向かった。
翌朝、高杉の妻も娘も不機嫌だった。高杉が「おはよう」と声を掛けても返事がない。今まで、多少の喧嘩をしたことのある家族であるが、口も利いてくれなかったのはこれが初めてあった。
「ごめん。昨日は皆で宮本の家によって遅くなっちゃったんだよ」
だが、妻は高杉の方を向こうとはしない。ただ、朝食の準備を黙々と進めている。
「お父さん、シロギス楽しみにしてろって言っていたのに」
娘の愛美がむくれ顔で言った。
「あ、ああ、ごめんな。たいして釣れなかったから、人にあげちゃったんだ」
「お陰で私たち、夕べはふりかけご飯だったのよ」
愛美は高杉を睨むようにして言った。
「釣れないわけないもんですか。いつもは五十匹、六十匹釣ってくるくせに」
妻が背を向けたまま、ボソッと呟いた。
「いや、嘘じゃないって。昨日は初心者の面倒を見るのに大変で、竿を出す暇がほとんどなかったんだ」
高杉は慌てて弁解し、妻に寄り添う。だが、妻は高杉の方を向こうともしない。
「何もシロギスが食べたくて言っているんじゃありません!」
「遅くなってすまなかった」
「最近は残業でいつも遅いじゃない。それで休日は釣り。そこでも遅くなって……。愛美や私はどうでもいいわけ?」
妻が堪えきれず、唇を噛みながら、高杉を睨んだ。高杉の心の中にグレーの帯のような霧が立ち込める。残業などはほとんどしていない。宮本の妻と密通しているのだ。グレーの霧は高杉の心臓を取り巻き、その中で真っ赤な血液が鮮明に脈打っていた。
「いや、すまなかった。なるべく早く帰れる日はそうするよ」
「馬鹿……。本当に家庭を顧みないんだから」
妻の瞳には涙が光っていた。それを見て、高杉の心は痛んだ。寝室が別だからと言って、家庭全体の環境がすこぶる悪いわけでもない。そのささやかな幸福を今、自分は壊そうとしている。そんなことを思うと心が痛むのだ。
だからと言って、恵美との関係をすぐさま清算できるほど状況は楽ではなかった。この時、高杉は家庭での平凡な幸福と、恵美とのスリリングな関係とを天秤にかけていた。