ライフジャケット
高杉は背徳の接吻と肉の質感に、得も言われぬ興奮を覚えていた。それは中国の諺には当てはまらない、一瞬で消えてしまう花火のごとく、瞬くような快楽であった。
高杉は会社で釣りクラブを立ち上げた。亡くなった宮本の名を取り、「宮本沖釣り愛好会」と命名した。元々社内では釣り人口が高かったのだが、沖釣りとなるとやはり敷居は高い。若い連中はブラックバスを追い掛け回しているし、年配者にはヘラブナの愛好家も多かった。そんな者たちを説得し、船に乗せた高杉の努力は情熱に裏打ちされたものと言えよう。
無事に第一回目の釣行であるシロギス釣りを終えて、高杉は一路、宮本の家を目指した。実は釣りクラブの会費や乗船料に、宮本の子どもの育英基金を上乗せしているのだ。それは微々たる金銭ではあるが、会員の好意として宮本の妻にしっかりと送り届けなければならない。
宮本の妻、恵美は恭しく育英基金を受け取った。
「今度の定例会でも届けますよ」
「本当に貴方には、こんなにしていただいて……」
「それは会員の皆さんに言ってください。それと……」
「それと?」
高杉がクーラーバッグからフリーザーバッグに入った魚を取り出す。
「シロギスです。宮本とシロギス釣りに行こうって言っていたんです。天ぷらにでもして仏前に供えてやってください」
「まあ」
恵美の顔がほころぶ。
「じゃあ、今日はこれで」
「待って!」
恵美が高杉の袖を引っ張った。その瞳は女の瞳になっていた。真剣な瞳だった。高杉は家に帰って、魚を捌かねばと思っていた。いつも釣りからは真っ直ぐに帰宅している。だがこの時、恵美の誘惑を振り解くだけの心の強さを、高杉は持ち合わせていなかった。
「それをお脱ぎになって」
高杉が家に上がったところで、恵美が言った。その言葉に高杉はライフジャケットを着たままであることに気付いた。
これから行われる行為、それは不倫以外の何物でもない。そんな背徳行為を宮本の分身であるライフジャケットに見せ付けるわけにはいかなかった。
その日、高杉が帰宅すると子どもはもちろんのこと、妻の信子は先に寝ていた。帰宅したのが二十五時位だったから、当然といえば当然であった。家に帰って捌くはずだったシロギスはすべて宮本の家で捌き、彼の妻へのお土産にした。
高杉と妻とは既に寝室は別であった。夫婦の営みも、ここ数年行われてはいない。