ライフジャケット
「そのうち私が連れて行ってあげますよ。その時にこの道具を使わせてあげて下さい」
「まあ、息子たちの面倒もみて下さるんですか?」
「宮本の忘れ形見に最高の幸せを教えてあげたいんですよ。中国の諺にあるんです。『一時間幸せになりたかったら、酒を飲みなさい。三日間幸せになりたかったら、結婚しなさい。八日間幸せになりたかったら、豚を殺して食いなさい。一生幸せになりたかったら、釣りを覚えなさい』ってね」
そう言って、高杉は壁に掛かっているライフジャケットに手を伸ばした。普段はコンパクトだが、落水すると自動膨張する最新式のライフジャケットである。
「これだけ頂こうかな」
「まあ、それだけでよろしいんですの?」
高杉は今までライフジャケットを着る習慣がなかったし、持ってもいなかった。実際、船が沈没したり、船から落水したりすることはなく、必要を感じていなかったのである。
それに対し宮本は、いつもライフジャケットを着用し、落水に備えていた。そんな彼が病気で先に死んでしまうとは皮肉な話である。
「これだけで十分ですよ。恥ずかしい話、今まで私はライフジャケットを着たことがないんです。これからはこれをあいつだと思って、ちゃんと着ます」
「嬉しいです。死んだ主人もきっと草葉の陰で喜ぶでしょう」
恵美が微笑んだ。高杉はドキリとした。改めて近くでその微笑を見ると、恵美はなかなか美しいではないか。だが、その不謹慎で不埒な妄想をすぐに掻き消し、高杉はライフジャケットに目を遣った。
「じゃあ、私はこれで……」
「ちょっと待って下さい」
恵美が高杉の手を掴んだ。
「もう一つ、貰ってもらいたいものがあるんです」
そう言い、恵美は身体を高杉に摺り寄せてくる。
「奥さん、冗談は止めて下さい……」
「冗談でこんなことが出来まして?」
恵美は高杉の手を自分の胸元へと誘う。高杉の手が震えていた。
「宮本が見てますよ」
「四十九日は終わったのよ。あの人はあの世へ旅立ったわ。私、あの人が死んでから寂しくて……」
「奥さん……」
震えていた高杉の掌が、恵美の胸を鷲掴みにした。
「私、元々男の人なしでは生きていけないの……」
唇と唇が重なる。それはキスなどという生易しい表現では表せない、濃厚な接吻だった。