ライフジャケット
船は揉みくちゃにされていた。波の高さは四から五メートルはあるだろうか。そんな波が容赦なく船を襲うのだ。二十メートルを越える大型釣り船とは言え、いつまで耐えられるかは時間の問題だった。
それはとてつもなく大きな波だった。船を見下ろすような、そうまるでビルのような波が船に迫り、呑み込んだのだ。
「うわーっ!」
誰もが一斉に叫んだ。高杉には一瞬、何が起こったのかさえわからなかった。だが、次の瞬間には天井と床が逆さまになり、一斉に海水が浸入してきたのだ。
高杉は夢中で海面を目指した。いや、本能の赴くままに息が出来る場所を求めていたに過ぎない。だから、船の転覆から水面に顔を出すまでの記憶は定かではない。
高杉が水面に浮んだ時、船は仰向けになり、船尾から徐々に沈みかけていた。
高杉はライフジャケットを見た。それは水分を感知し、膨張してしっかりと高杉を支えていた。
「宮本、助かったよ!」
高杉は思わず叫んだ。自動膨張式のライフジャケットは仰向けの姿勢で体位が保持される。高杉は海に寝そべりながら、波間を漂っていた。それは翻弄される空き缶よりも脆い存在であった。
「宮本、宮本……」
そんなうわ言を高杉は何回繰り返しただろうか。
『俺のライフジャケットが役に立って何よりだよ』
高杉はわが耳を疑った。だが、その声は確かに宮本の声だった。
「宮本、宮本なのか?」
『そうだよ、俺だよ。俺の肉体は滅んでも、魂はライフジャケットに宿っているんだ』
「おお、宮本……」
信じられるかどうかの問題ではなかった。確かにライフジャケットから宮本の声が聞こえてくるのだ。
時々、波が高杉の顔を覆い、塩辛い海水が口に入る。他の釣り人や船長がどうなったかはわからない。高い波間に遮られ、視界はすこぶる悪かった。
『もう少しで助けがくるさ。もう少しの辛抱だ』
「宮本、俺はお前の女房と……」
高杉はまだこの世界に宮本がいることに驚くと同時に、己の行動に自責の念を覚えていた。
『恵美はああいう女さ。そのうちお前にも飽きて、誰かと再婚するだろう。お前を責めたりしないよ』
「許してくれるのか?」
『許すも何も、恨んじゃいない』
「すまなかった」
高杉は泣きそうになって、ライフジャケットにすがった。
『それより、シマアジは惜しいことをしたな』
「何、命があればまた釣れるさ」