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てっしゅう
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「忘れられない」 第八章 諦めない

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有紀はそう言って、部屋を出て行った。明雄は有紀の世話になることが辛かった。情けない気持ちが自分を卑屈にする。折角見つけたパソコンの仕事もこの入院でどうなるのか解らない。真実を会社に報告したら・・・解雇になってしまうかも知れない。そう考えると一層惨めな気持ちに追い込まれる。健康保険があってもガンの治療にはたくさんのお金がかかる。結婚したときに掛けていた生命保険もすでに満期が来て継続せずに保険金を使ってしまった。微々たる保険は掛けているが、ガン特約は付いていない。きっと、移植などしたら・・・莫大な金額がかかることだろう。命の保障もお金が担保にされる・・・そんな侘しさが胸をよぎっていた。

有紀が戻ってきた。
「ねえ、アイスクリーム買ってきたの。食べない?好きだったよね、明雄さん」
「うん、よく覚えていたね・・・全部は無理だから、半分頂戴」
「はい、じゃあ先に食べて。残ったら頂くから、遠慮しないで全部食べてもいいのよ」
「・・・うまい。冷たくて甘いよ。ほら、キミも食べな・・・」
スプーンに載せて有紀の口に運んだ。
「ほんと!甘い・・・やっぱりハーゲンダッツね。これからも買ってくるね。今度はグリーンティーにしようかな」

他愛も無い会話が、有紀には幸せだった。こんな毎日が続いてゆくのかと思えば明雄を待ち続けた甲斐があったと素直に喜びに浸っていた。

病院を後にして、帰り道有紀は麗子に電話をした。早く言っておくに越した事は無いと考えたからだ。刈谷駅で朝と同じく待ち合わせして麗子の自宅まで乗せてもらった。有紀はご主人に向かって検査の依頼を改めてお願いした。快く引き受けてくれた二人は、今日は泊まってゆくように勧めてくれた。好意に甘えることにした有紀は、麗子にあることを相談しようと話を持ち出した。

「こんな時に話す事じゃないかも知れないんだけど、昨日の夜にね石原のアパートに訪ねて来た女性がいたのよ。封筒を手渡して、必ず明雄さんに渡して下さいって、帰っていかれたの。夜の9時前ぐらいだったかしら・・・もし私がいなくて明雄さん独りだったら、どうしていたのかって考えると、なんだか口惜しくて・・・私のこと、奥さん?って聞いたから、ハイ、って答えたけど、誰だったのかしらあの人。塾の講師仲間って言ってはいたけれど。どう思う?」
「明雄さんに聞いたの?そのこと」
「ううん、今は聞けないって・・・黙ってた」
「なぜ聞けないの?」
「だって、苦しんでいるんだもの・・・余命半年って言われたのよ」
「そうね、そうよね・・・逆に今なら本当のことが聞けるかもよ。治ったら、体裁を繕うかもしれないよ、あなたとのことを優先するから」
「そんなこと・・・そうだとしても私は聞けないわ」
「じゃあ封印するのね。どうせたいしたこと無い女だろうから、気にしないって言うことにしたら?あなた妻なんだし」
「簡単に言うのね。あの時の顔思い出したら・・・普通の関係じゃないって思えてきたわ。ひょっとして私の知らない時の奥さんだったりして・・・」
「想像力豊かね・・・単に生命保険のセールスレディーだったりして、ハハハ、そうだったら・・・お笑いね」
「麗子さん・・・ったら。まじめに答えてよ」
「仮に元妻だったとしても、今は関係を続けていないんだから、許してあげないと明雄さんのこと。男の一人暮らしだったんだから、魔が差すわよ。優しくされると、ついね」
「それならそれで、気にしないようにするけど・・・別れ話で揉めていたりしてなきゃいいんだけど」
「それは大切なことね。離婚訴訟は難しいからね。渡されたその中身が気になるわね・・・いっそ婚姻届を出してみたら?はっきりするわよ」

それもそうだと、有紀は思った。

翌日有紀は市役所で婚姻届の用紙を貰い、バッグに入れて明雄の病室に来た。少し話をしてから、その用紙を出して明雄に相談した。

「これ・・・解る?婚姻届よ。あなたの妻になりたいの。長年の夢だったから・・・こんな時にお願いするのも何故って取られるかも知れないけど、今がいいの・・・」
「有紀・・・ボクにはまだその資格がないよ。借金返しきってないし、病気だってどうなるかまだ解らないし。少し待ってくれないか・・・せめて退院できる日まで」
「明雄さんには何か隠し事があるの?お互いに好き同士で、一生離さないって約束しているのに、届けが出せないなんておかしいよ」
「今出すタイミングじゃないって思うからそう言っただけだよ。治療が上手く行かずに死んだら・・・戸籍に傷がつくよ。それに、有紀を紙切れのせいで長く束縛したくもないしね。気持ちは変らないから、まだ後でも構わないって思うんだけど、何故急ぐんだい?」
「私はどこへも行かないし、あなた以外の誰とも付き合わない。そう決めてここまできたのよ、何度も言うけど。戸籍がどうのなんて当てはまらないし、束縛してくれなくても変る事なんかないのよ。今すぐ署名して、明日から夫婦になりましょうよ・・・これからの治療のことも含めてより強い気持ちで向かい合いたいの」
「すまない・・・署名は出来ない。有紀の事は誰よりも好きだし気持ちが変る事はない。ボクの戸籍にはまだ妻の名前が記載されている・・・連絡をしたんだけど、返事がなくて。今からもう一度請求するから、ちょっと待っていて欲しい」
「やっぱり・・・そうなのね。一昨日アパートに帰ったら女性が尋ねてきたの。その方が奥様だった人ね・・・」
「えっ!来たのか?何か渡さなかったか?」
「封筒を預かったわ・・・これよ」
「何故言わなかったんだ・・・これはきっと頼んでおいた離婚届の署名が入っているはず・・・」

明雄は有紀の目の前で封筒を開け、中から書類を取り出した。それは明雄が待ち望んでいた署名捺印された離婚届に間違いなかった。

「有紀、本当にすまない・・・言い訳がましくなるけど、彼女とはもう二年も会っていなかった。塾をしていた時に知り合った仲間だったんだ。お互いに寂しさを語り合っているうちに、彼女が僕のアパートに転がり込んできた。拒否していたんだけど・・・誘惑に勝てなかった。有紀の事諦めかけていたから、なおさらどうでもいいやって・・・思ったんだ」
「そう・・・そういう時期があったのね。明雄さんは孤独を感じた時に何故私を探そうって考えてくれなかったの?」
「名古屋に住んでいるんだよ・・・無理って思えたから」
「私はあなたの手紙を見て名古屋まで探しに来たわ。たとえあなたが結婚をしていたとしても、自分の気持ちにけりをつけたかったから、消息を知りたかったの。明雄さんは、私がどうしているのか気にならなかったの?」
「有紀・・・責めるなよ。ボクはお前みたいに強くないんだ。情けない初老の身勝手な男なんだから・・・嫌いになっただろう。昔のボクとは違うんだ・・・落ちぶれて、カッコよく恋愛なんてする柄じゃないんだ。有紀と逢えた事は最高に嬉しかったけど、有紀に全てを知られた事は最高に惨めだよ・・・キミがよくても、ボクがもうダメだ・・・別れよう、キミのためだ」