よそ者
昼前には駅に来る約束になっていた。時計は十一時五十五分を指していた。上りの電車の発車を知らせるベルが響く。それが栄一の心を無性に焦らせた。
(アイのやつ、遅いな……)
栄一はこのままアイが来ないのではないかと心配になる。しかし、アイは「もう、引き返さない」と誓ってくれたではないか。
栄一の手にはまだ、楠本を殴った感触が残っていた。栄一は強く拳を握った。何度も何度も殴りつけたその拳を見て、栄一はアイの父親に勝ったような錯覚に陥っていた。
(あんなクズ……)
そう心の中で吐き捨てる。楠本を卑下することにより、自分を優位に見せたかった。楠本を制圧することにより、自分を正当化させたかった。しかし、楠本を散々殴った後の虚無感は如何ともしがたかった。だからこそ、アイを連れてこの町から一刻も早く立ち去りたかったのである。
時計は正午を指そうとしていた。栄一が焦れたように、親指の爪を噛んだ。
そんな時、不意に栄一の携帯電話が鳴った。アイからの着信だ。
「もしもし、アイ、遅いじゃないか」
栄一は不満そうな声色を電話にぶつけた。
「ごめんなさい。行けなくなっちゃたの……」
「何だって?」
栄一がボストンバッグを落とした。
「ごめんなさい。お父さんが昨夜、大怪我をして入院することになったの。本人は転んだって言ってるけど、どう見ても殴られた傷なのよ」
電話の向こうでアイも相当慌てていることが窺えたが、そのまま引っ込める栄一ではなかった。
「父親のことなんかどうでもいいじゃないか。娘をソープで働かせて、その金で酒飲んだり、女買ったりしてたんだぞ!」
「うち、生活保護受けているんだけど、ソープで働いていることは内緒なの……。そのお金がないとお父さんは生活できないの」
アイは泣きながら生活保護の不正受給を打ち明けた。
「君のお父さんは人じゃない。このまま縛られ続けられたら……」
「でも、私のたった一人のお父さんだもん。世界でたった一人の家族だもん……」
それは溝だった。今までの人生をすべて捨ててきた栄一にとって、アイのその言葉は埋めようのない深い溝だったのである。
(もう、何も言うまい)
栄一は返す言葉もなく、電話を切った。そして、ボストンバッグを肩に掛けると、背中を丸めて改札へ向かった。人もまばらな駅では、その寂しい背中をいつまでも追うことができた。