蜘蛛ヶ淵
大蜘蛛の頭が僅かに頷いたように見えた。恐る恐る美由紀が山女魚に手を伸ばした。別に山女魚を食べたかったわけではない。そうするより他に手段がなかったのだ。ここで大蜘蛛がへそを曲げ、牙を自分に向けられることの恐ろしさを想像するだけで美由紀は生きた心地がしなかった。山女魚はまだ生きており、美由紀の手の中を滑って水の中へと返っていった。それを逃すまいとして、大蜘蛛が俊敏に山女魚を咥える。そしてまた、山女魚を美由紀の前へと放ったのであった。
「あ、あんたは一体?」
美由紀が恐怖に耐えながら呟いた。
「俺は見ての通り蜘蛛だよ。お前が俺の前から逃げないと誓うなら、食わずに生かしてやろう。だが、一度でも逃げようとしたら、この牙で肉を引き裂き、はらわたを食らってやるわ」
大蜘蛛はドスの効いた声で美由紀にそう言った。なぜ大蜘蛛が人間の言葉を喋れるのかは知らない。ただ、大蜘蛛は確かにそう言ったのだ。
「私はどうせ死ぬ人間よ。食べるなら死体になってからにして」
微かに漏れる陽の光に大蜘蛛の顔が浮かんでいた。その単眼に美由紀の顔が映っている。大蜘蛛は無表情に美由紀の言葉を聞いていた。
「そうか。女が一人、こんな山奥に来るとは不思議と思っていたが、死にたがり屋だったとはな」
「だから魚なんて要らないわ。どうせ死ぬんですもの。私が死んだら煮るなり焼くなり好きにして頂戴」
「くくく、生きたがり屋と死にたがり屋の組み合わせとは面白い」
大蜘蛛が笑った。その表情からは笑いは読み取れないが、確かに大蜘蛛は笑っていた。
「俺はな、元は秦野の百姓だが、博打でイカサマをやった罰でこんな蜘蛛にされちまったのよ」
「どういうこと?」
「今では廃れちまったらしいが、毎年五月十五日に塔ノ岳の山頂で野天賭博が開かれていたのよ。俺はそこで毎年、イカサマをやっては儲けていた。だがある年、一人の行者が俺のイカサマを見破ってな。尊仏さんに願かけをして、俺を蜘蛛の姿に変えちまったってわけさ」
「尊仏さんって何なの?」
「塔ノ岳の山頂からちょいと下ったところにある岩よ。何でも仏さんの形をしているとかで、昔からみんな拝んでいやがった。丹沢はよ、昔は行者たちがウロウロしてやがったんだ」
「信じられないわ。そんな話」