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蜘蛛ヶ淵

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 しかし、そんな得体の知れない糸が足に絡み付いているのは気持ち悪いものである。美由紀は糸を解こうと右足を引き寄せた。すると、糸は引っ張られて水滴が淵に飛んだ。
 風が止んだ。すると、にわかに水面がざわつき、淵の緑に黒い影が浮かんだ。流れを遮るように水面が盛り上がり、その影は姿を現す。
「あ、ああ……」
 美由紀は目の前で起こったことが信じられなかったが、信じるしかない。そして、固まったように動けなくなってしまった。淵から現れたのは身の丈、六尺はあろうかという大蜘蛛だ。
 大蜘蛛はコソコソと八本の脚を動かし、美由紀の前へとやってきた。その冷たそうな単眼はしっかりと美由紀を見据えていた。見え隠れする牙は獲物を切り裂くであろう。美由紀はただただ恐れ戦くばかりであった。よく見ると、美由紀の股下に染みができている。恐怖のあまり、失禁したのだ。もはや美由紀は声すら出なかった。
 大蜘蛛はしゃがみこむ美由紀を見下ろしていた。そののっぺりとした単眼は何を考えているかわからない。普通に考えるならば、目の前に餌があると思うだろう。だが、大蜘蛛は何やら考え込むかのように動かない。やがて大蜘蛛は口から糸を吐き出すと、前脚で美由紀を器用にグルグル巻にしてしまった。ここで美由紀の記憶は途絶える。

 美由紀は気が付いた時、周囲を岩に囲われた暗い空間にいた。どこからか陽の光が微かに差し込んでいるが、それがどこから来るのかはわからない。岩は湿っており、水が美由紀の足元まで来ていた。耳をすませば勢いよく落ちる滝のような音が聞こえた。どうやら洞の中のようだ。それも沢とつながっているらしい。
 突如として水面からあの大蜘蛛が顔を覗かせた。美由紀は思う。あれは夢ではなかったのだと。大蜘蛛の口には何かが光っている。大蜘蛛はそれを美由紀の足元へと放った。それは一匹の山女魚だった。
「こ、これを食べろと言うの?」
作品名:蜘蛛ヶ淵 作家名:栗原 峰幸