蜘蛛ヶ淵
父親は激高し、美由紀にお茶を投げ付けたほどである。そればかりではない。母親は美由紀の周囲に「ふしだらな女」と言い触らして回ったようだった。美由紀は朝のゴミ出しの時でも白い目で見られ、いつしか回覧板は回ってこなくなった。玄関に生ゴミが捨てられていたこともある。
「もう、耐えられない」
美由紀がそう思った時には、既に声が聞こえていた。「美由紀はふしだらな女だ!」というあの声が。その声に導かれるようにして、美由紀は丹沢の山中を目指した。秦野からヤビツ峠行きのバスに乗り、終点から歩く。そして、人気のない沢筋を遡り始めたのだ。この時の美由紀には、生きる希望などなかった。ただ、己の存在を消したいという欲求しかなかったのである。
美由紀が腰を下ろしてどのくらいの時間が経っただろうか。しかし、時間の概念すら美由紀にはもはや存在していない。美由紀はこの沢の名前すら知らなかった。何せ登山や沢登りなど、まったく経験がない美由紀である。
上流からそよ風が吹いていた。それが美由紀の項をくすぐる。木々のざわめきは、轟々と流れ落ちる沢の音にかき消された。美由紀の前には淵がある。深い緑色を湛えた淵だ。美由紀はその淵を羨ましそうに見つめた。その神秘的な緑色は生を肯定し、命を内包しながらも滔々と流れ、あらゆる魂を育んでいるように美由紀には思えたからである。死を決意した美由紀にとって、それは妬ましくもあり、直視するのに躊躇うべき光景でもあった。
仕方なく、美由紀は目を閉じた。慣れない登山の疲れもあったのだろう、美由紀は微睡むようにして眠りに落ちていった。美由紀はこのまま目が覚めなくてもいいと思った。
美由紀が微睡で、どのくらいの時が経っただろうか。美由紀は右足にむず痒さを覚えて目を覚ました。美由紀は右足を凝視する。すると、そこには半透明の糸のようなものが結わい付けられているではないか。
「何、これ?」
美由紀がその糸に触れてみると、糸は非常に粘着質の強い素材でできており、弾力にも富んでいる。そう、それはまるで蜘蛛の糸のようだ。糸は水中へと一直線に伸びており、糸に絡み付く水滴が水玉となって、光を反射し、美しく幻想的な光景でさえあった。