蜘蛛ヶ淵
「うわっ、ああっ、ひいっ」
道元が素っ頓狂な声を上げてよろけた。
「助けてくれぇ!」
道元はへっぴり腰のまま、川上へと向かって走り始めた。その後を清吉と美由紀が追う。
道元は道なき道を走った。普段、飽食で肥えた身体が重かった。それでも必死に稜線までたどり着くと、今度は転がり落ちるように谷間へと向かう。
清吉と美由紀の追跡は執拗だった。二人ならば道元に追いつき、その息の根を止めることくらい容易なことだっただろう。だが、あえてそうしなかったのは、それなりに思惑があったのだろう。清吉と美由紀は一定の距離を置いて、道元を追い続けた。
「はぁはぁ、ひぃひぃ……」
清吉と美由紀は巧みに道元を林道とは逆の方向へと追い込んでいく。
いくほどの尾根を越えただろうか。道元はふと、空腹感に襲われた。それも身体が動けなくなる程の空腹感だ。道元は背負ったナップザックをから握り飯を掴むと、逃げながら食い散らかした。
「おかしい。いくら食っても腹が膨れない」
気が付けば道元は握り飯を五つも平らげていた。
「あの生臭坊主、私たちに追われてよく握り飯など食べられるわね」
道元の様を見た美由紀が呆れたように言った。
「くくく、違うよ。ここはそういう場所なのさ」
清吉が笑う。道元は走ろうとするが、力が出ないのかその場にへたり込んでしまった。
「ああ、腹が減る……!」
道元はナップザックを逆さまにし、中の物をすべて出した。中から出てきたのは、札束の入った財布や豪勢な弁当だ。道元は弁当を開けると、手掴みでその中身を食い出した。その様はまことに卑しいもので、とても聖職者とは思えなかった。骨の付いた肉に食らいつき、齧り取る。そして、咀嚼し嚥下する。その口元が脂で汚れる。
「どういうこと?」
「このヤビツ峠の辺りはな、その昔は合戦場で、平家の亡霊が彷徨っているのさ。奴らは腹を空かしている。その亡霊に取り憑かれた者は腹が減り、動けなくなるというわけさ。食い物を半分後ろに投げてやりゃ、助かるんだがね。あいつは意地汚い。まあ、生臭坊主だってことがこれでわかったじゃないか」
清吉が皮肉っぽく笑った。
「何で私たちには取り憑かないの?」
美由紀が不思議そうに尋ねた。
「俺たちは一度、死んだようなものだ。そんな奴らにゃ、亡者は目もくれないもんさね」