黄金の秘峰 上巻
馬五十頭で運んだというからには、険しい山道を登ったとは考えにくい。柳沢峠程度なら納得出来る。
また、和歌の解読は出来ず仕舞いということらしい。
譲次はその和歌こそが総ての謎を解く鍵のように思えて来た。
となれば、なんとしても謎の和歌の暗号解読に挑むしかあるまいと。
著書によると、この和歌は信玄の作とある。
これが信玄作である理由は、敵方の徳川(松平)の手になる三河風土記に、信玄が自ら「甲斐こそ無けれ」「松(平)に千年」と詠んだことを家康が喜んだという逸話が記されているからである。
譲次は念の為、信玄に関する本を数冊買い込み代表的な作品を調べたが、この和歌は見当たらなかった。図書館に行く手もあるが、念のため東京駅八重洲口近くのブックセンターで三河風土記を探した処、幸いにも其の本が見付かった。分厚い本を調べた結果、確かにその話が記録されている。
第十四巻「連歌会濫觴附井伊万千代登庸のこと」の中に信玄の歌として載っている。
一般に、信玄は戦の名人としてのイメージが強い。
確かに、策彦や快川などの名僧達から学んだ知識を基に甲州流軍学を生み、実戦での活用によって近隣諸国を領土化した。殊に、赤備えの鎧兜は、快川が揮毫したと言われる「風林火山」の「孫子の旗」と共に天下無敵の武田軍団の象徴であった。
しかし、それら多くのインテリ僧達を甲斐に招き幅広い知識を吸収したのは、軍事面のみでなく多方面に亘る領国経営にその力を発揮するためでもあった。
治山治水方面では釜無川の〔信玄堤〕が有名である。
又、金山経営にも熱心で、数多くの金鉱が存在した。
文化面でも活発な活動をし、彼自身の作品も多く残っている。
いわゆる公家文化の影響を多分に受け、青年晴信時代から和歌、
連歌、俳句、和漢連句、漢詩などに熱心だった。
余り詩文に凝り過ぎて養育係の板垣信方が死を賭して諫めたほどだと言う。
譲次は、信玄が西上作戦の出陣前夜に埋蔵させた分のみならず、万が一出先で武田軍が何れかの敵に敗れた場合、或いは留守中に甲斐を敵に奪われた場合等の危険を配慮してか、常日頃再三にわたり再興の為の資金を埋蔵させていたことを知った。
場所を分散することで危険の分散も図られよう。
しかし、最重要なことは埋蔵場所が地理的に掘り返し易いことであろうと譲次は考える。
従って、柳沢峠の様な甲斐国内への埋蔵では、掘り出し、運搬の点で占拠している敵方に見つけられ易く掘り返しに相応しい場所とは言い難い。
時下数千億円と言われる、お家再興の為の軍資金の主要な埋蔵場所は甲斐国内ではなく且つ掘り出し易い場所の筈だと。
その証拠に、謎の和歌の
「かひこそなけれ」即ち「甲斐こそ無けれ」の解釈がある。
当時、信玄は敵に、つまり上杉、北条、徳川、織田に周囲を包囲されていた。この内、北条、織田とは姻戚関係を結び一応危険は薄れてはいるが、さりとて、いつ何時再び敵に変わるかも知れないのが戦国の世の常である。
現に、信長に対し信玄自身が裏で色々画策していたと伝えられる。
譲次は、信玄時代の信濃その他の分国を除いた本来の領地、甲斐つまり現在の山梨県の県境を順次調べ始めた。
その結果、信濃即ち長野県との県境が最も妥当と考えられた。理由としては、
一 万が一の場合の当面の逃避先は、北条氏の元と考えられるので、軍資金も武蔵、相模との境界が妥当と思われるが、上杉にしろ、徳川にしろ当然想定するであろうから、返って危険度の高い埋蔵場所となりかねない。快川等の知恵を考慮すれば、敵の裏を掻いた場所が考えられる。
二 信濃は当時武田の領地であったので埋蔵し易かろう。
三 甲斐、信濃等が敵に占有されても上杉謙信の居城春日山城からは距離も遠く監視も緩いので掘り出し易かろう。
四 又、掘り出すにしても県境の山々は標高差の相違から、甲斐側に比し信濃側からのアクセスが意外に容易である。因みに信濃側の小海線の野辺山駅はわが国で最も標高の高い駅として有名である。
等である。
これで、多田健一郎が何故金峰山で死亡したかが頷ける。
多田親子、いや、少なくとも息子の健一郎は譲次と同様に、埋蔵地が信濃との境界近辺であると推理していたと思われる。
譲次は著書に書かれていた穴山梅雪が埋蔵し、再発掘したという柳沢峠を一度見て見たいと思った。
一体信玄がどのような場所に軍資金を埋蔵したか実際に検分しておくのも今後の調査の参考になるだろうと考えたからだ。
週末を待って、レンタカーを借りると八王子を出発した。 中央高速に入り、勝沼で出ると国道四一一号線に入り、塩山駅に
向った。 市役所を右手に見ながら線路下を抜け、大菩薩嶺に向かって青梅
街道を走る。山間に入り柳沢峠に至る道中は大菩薩ラインの名が付
いており、丹波渓谷を経由して東京都との境界に跨る人口湖、奥多
摩湖に通じている。 裂石温泉辺りから道は蛇行しはじめ、如何にも峠越えの趣が感じ
られる。 ひときわ急なカーブを幾つか過ぎると間もなく柳沢峠である。 著書では峠を越えて四、五キロ先の、東京都の水道局出張所先を
左折した前方の山間近辺と記している。
久し振りのドライブは嬉しいのだが、乗り心地の良くない車に不満を感じている。
一之瀬高原に通じる道に入った所で、黒塗りの乗用車三台が駐車していた。
(こんな所に車を放っておいて邪魔だな) と譲次は車を止め、窓から辺りを見回した。
左手の山腹に林道らしきものがチラホラ見え、行く手に太い松がある。雑木に見え隠れして十人程の人影が映った。
(何だ、あんな所に大勢で?何か有ったのかな?) 助手席に置いてあるカメラを手にすると覗き込んだ。 望遠レンズを装着したハッセルを通して人影は目の前に引き寄せ
られた。 譲次は殆ど無意識にシャッターを押していた。 言わば、反射的、大袈裟に言えば本能的な行動と言えよう。 カメラを手にすると無性にシャッターを押したくなる。 カメラを置き、改めて周囲を見回した。 巨額の埋蔵金の在り処にしては余りにも特徴がなく、埋蔵場所の
特定が困難との印象である。 つまり、あのコピーの掛け軸の絵図面とよく似ていて、何処にで
もありそうな地形である。 譲次は実地検分はこれで十分出来たと思った。
帰途、序でだからと思い、勝沼から甲府に車を走らせ、幸一の家に寄って見た。
生憎、幸一は出勤して留守だった。