黄金の秘峰 上巻
課長の号令で一同ザイルを用心深く引っ張り始める。
一行がN署に引き上げた時は、既に夜だった。
回収した白骨死体は鑑識係の手で仔細に調べられた。
まずは、身元割り出しに掛かった。
それにはボロ布と化した衣類の検査が第一だった。
幸い、クリーニング屋で貼付したと思われる小さな布製のステッカーにおぼろげながら「多田」の文字が読み取れた。
記録を調査の結果、行方不明者に同姓が二人出て来た。
それは十五年前と五年前に、それぞれ捜索願が出され行方不明のままとなっている県の住民,多田惣吉と健一郎の親子だった。
しかし、この白骨死体が二人の内の一人と断定することは早計であろう。
奥秩父は比較的人気があるため、他県の人間の可能性も十分ある。
N署の刑事課の二人の捜査員が多田家を訪問することになった。
御岳昇仙峡からさほど遠くないS町の造り酒屋である多田酒造株式会社は、佐和子という三十半ばながら恰幅のよい女社長が切盛りしている。
昨今の地酒ブームで業績も急上昇、やり手の美人社長として同業仲間でも専らの評判である。
捜査員達の報告を受けて佐和子は驚いた。
山に入っての行方不明故、いずれは遭難死体発見の報せを受けようとは覚悟していたが、兄健一郎ですら既に五年が経過しており仕事も多忙な昨今では、正直なところ兄の事もつい忘れ勝ちだった。
捜査員が丁寧に拡げた紙包みの中から一枚のボロ布が現れた途端、佐和子の目に涙が込み上げて来た。
生地に見覚えがあった。
東京の大学を卒業して家業を継いだ健一郎だったが、暫くすると仕事を放り出して山歩きに熱中するようになった。
山へ出掛ける時、いつも着ていた登山着だった。
「兄のものに相違ありません」
そう答えると、再び涙がぐっと込み上げて来た。
健一郎があのまま造り酒屋を継いでいてくれれば、自分はつまらぬ陰口などきかれずに、とっくに嫁いでいたであろう。
女であるが故に、社長とはいえ辛い事は山ほどもある。
改めて兄健一郎を恨めしく思った。
「そうですか、判りました。尚、ご遺体は暫く預からせて頂きますが御了承下さい」
佐和子は発見された兄の遺体がまさか頭部その他大部分の骨が欠落した不完全なものとは知る由もなく、何かと警察の方でも都合があるのだろうと解釈した。
捜査員達にしても損壊の激しい不完全な遺体の状況については言及したくなかった。
「ところで、お宅では惣吉さんという方も、十五年程前に捜索願を出されていますが、お父、お父上ですか?」
若い方の捜査員が舌をもつらせた。
先刻から佐和子の顔ばかり見詰めている。
「はい、父です。兄同様に矢張り山へ入ったきり帰って来なかったのです」
佐和子は十五年前のあの時の事を思い出した。
山行きの服装に着替え、昼前に家を出た父惣吉が、夜遅くなっても帰宅せず家中が心配した。祖母のチサ、母の久美、それに自分と高校三年の妹の京子だった。
まんじりともせず夜を明かした多田家は、翌日朝、最寄りの派出所に惣吉の捜索願を出した。
それまでも屡々山に入った惣吉だったが其の日の内に必ず帰宅した。それだけに心配だった。
どこか沢にでも転落して、骨折でもして動けなくなっているのではなかろうかと気懸かりだった。
結局、近隣の山中を警察、消防団の合同で数日間に亘って捜索したが発見出来なかった。
町の噂にこんな内容のものがあった。
昔、この界隈の或る村で、一人の頭の弱い青年が突然行方不明になり、皆大騒ぎした。
年老いた村人の中には、神隠しだと声高に言う者もいた。
数ヵ月後其の青年は天狗に日本中案内して貰ったと言って、ひょっこり戻って来た。
今度の行方不明もきっと天狗の仕業で其の内元気な姿で帰って来るだろうと。
しかし、佐和子は、頭の弱い青年と五十一歳の働き盛りの造り酒屋の主人との間に共通点らしいものも見出せず「神隠し」説には同意できなかった。
反面、そうあって欲しいという気持ちも強かったのは、二十そこそこの乙女心というよりも、大恋愛のすえ親を説得して一使用人に過ぎなかった惣吉を婿入りさせた母久美の、深い嘆きを目の前にして堪えられないものを覚えたからだった。
N署に戻った二人の報告で「千代の吹き上げ」の白骨死体は多田健一郎のものと考えて間違いなかろうということで、意見が一致した。
残る問題は、この変死体が犯罪に絡むものか、或いは単なる事故によるものかの判断だった。
しかし、発見現場、死体の状況等の特殊性から困難なものがあった。更に崖下に落下したものと思われる頭骨他の部分の回収も、その後の捜索により現場への接近が困難との報告がなされていた。
気になる点は、親子二人揃っての遭難だったが、これも考え様によっては山好きの親子は何処にでもいるし、山となれば危険は付き物である。
まして、二人とも単独行を好んだとなれば遭難の危険度は増すばかりで、必ずしも奇異とばかりは言えない。
結局、捜査本部は設置されず多田健一郎当時三十二歳の単独行による遭難死、つまり金峰山でも古来最も危険とされる「千代の吹き上げ」付近の痩せ尾根から足を滑らせて岩棚に転落、死亡したとの結論になった。
この事は地元のマスコミを中心に報道された。
譲次は、兄幸一から白骨死体が健一郎のものと報らされて以来、ずっと同じ疑念に取り付かれていた。
従って、テレビの画面が多田健一郎の顔写真付で、金峰山での単なる事故による遭難死として報じるのを見て、つい大声で警察の発表を嘲笑ったものだ。
昨夜も幸一から電話があった時、其の事で言い争った。
「おい、譲次。お前、健さんの検視調書に名前を書かれるぞ」
「何で?」
「発見者としてだよ」
「ふーん、ところでケンシチョウショって?」
「つまり、健さんの遺体は普通の病死などと違い、ひょっとして犯罪にでも巻き込まれたものかも知れないという観点を考慮して特に調べたという報告書さ」
「でも、結論は転落による事故死だったという事だろ?」
「うん、犯罪によるものと判断するには、何もそれらしい材料、証拠が無いからな」
「だけど、兄貴。健さんの様な山歩きのベテランが、選りによって金峰で足を踏み外すなんて。おかしいよ」
「いくら、ベテランでもうっかりという事もあろうしな」
「俺には納得出来ないな。もっと、調べ様があるんじゃないかな」
「生意気言うな。それに正式発表したからには、今更どう仕様もないよ」
「やっぱり、お役所だな。やる事が」
「うるさい!素人がゴチャゴチャ言うな!」
「・・・・・」
折角の晩酌の酔いも醒めてしまった。
孝一は電話を切ってから、大人気ない事を口走ってしまったと内心後悔するのだった。
其の様子に傍らの頼子が必死に笑いを堪えている。
第二章 絵図面
京のカウンターで、譲次と京子が向き合っている。
背後のボックス席からは、男女の賑やかな笑い声が絶えない。
「京ちゃん、健さんの葬儀には出席出来なくて御免ね。生憎、出張と重なっちゃって」
「ううーん。いいのよ。幸一さん夫妻にも来て頂いたし」