黄金の秘峰 上巻
「あらあら、お腹の虫が催促してるわ。譲次、早く食べさせてあげなさい」
カウンターの上に置かれた京子の手の先でダイヤが光った。
帰途、譲次が八王子駅に近いカメラ屋に入ると店主が笑顔で立っていた。
遅くまで店を開けているので永年使っている。
「お帰りなさい。如何でした、金峰は?」
「ん、まあまあ。兎に角寒かった」
そう言いながら、譲次は五本のフィルムをガラスケースの上に並べた。
「いつも通りベタ焼きで」
「承知しました」
店主から預り証を貰うと店を出た。
駅前でタクシーを拾い自宅のアパートに着いた時は、既に九時を回っていた。
風呂を沸かす間テレビでも見ようかとスイッチを入れた。
丁度九時のニュースの最中だった。
画面は山梨県甲府市内の小規模な暴力団の様子を報じていた。
暴力団の組長という男が、カメラを背に喋っている。
数年前からの暴力団対策の強化で警察の取り締まりが厳しく従来の資金源では組員を食わせることもままならぬ状況で、近く組を解散する予定だと語っていた。
男の着ている上着の異様に太い黒と黄の縦縞が印象的だった。
(なるほど、「近寄ると危険」の柄か、洒落てるな)
譲次は社内の写真同好会の会員である。
今年も会が主催する秋の作品展が近付いている。
譲次は毎回出品するように心掛けているが、未だ入選の経験がない。自分としてはかなり良い線を行っていると思うのだが、都度その期待を裏切られてきた。
(今度こそは)
と思いながらカメラ屋のガラス戸を開けた。
数日前ベタ焼きのプリントを点検し数枚を選びトリミングを決め、四つ切に引き伸ばすよう頼んでおいた。
「どう具合は?」
「いいですよ、特に紅葉の分が素晴らしいです」
封筒から数枚の四つ切の大きな写真を、丁寧に引き出しながら店主が世辞を言った。
「どれどれ」
譲次は店主の言葉が世辞でないことを知った。
我ながら、どれも素晴らしい出来映えだ。カメラアングルは勿論、露出も適正、フィルターも効果的だし、六x六のハッセルブラッドだから、粒子の荒れはなく画質も素晴らしい。
夏のボーナスの大半を注ぎ込んだ世界の名機と呼ばれるスウェーデン製の中型カメラの性能に感動した。
譲次は自分なりに気に入っている金峰の岩稜の一枚に見入った。
大日小屋から金峰山頂への登山コース上の視界の開けた好ポイントから、金峰南面の絶壁と這松の密生した急傾斜の北面を撮影したものである。
出品するとなると、ちょっとしたキズやゴミでも評価を落とす。
機械による自動プリントではなくラボ(現像所)での手焼きだとはいえ、所詮人間のやること故、不注意によるミスは避けがたい。
絶壁に注目した。
切り立った絶壁の中ほどに一寸した岩棚がある。
その狭い場所に妙なものが映っている。
しかし、写真の中での距離が遠すぎて、はっきりと見分けることが出来ない。
「これ、なんだろうね?」
半ば独り言ながら、そんな言葉が譲次の口から洩れた。
店主は何か不手際でもあったかという様に不審げな顔付きで、写真を覗き込んだ。眉間に皺を寄せて暫く見詰めていたが、
「何でしょうね。もう少し引き伸ばしたら判るかも知れませんが」
顔を起こしながらそう言って、譲次の目を見詰めた。
「じゃ、この岩棚の部分だけ思いっきり伸ばしてみてよ」
「そうですね。ハッセルだから解像力は抜群ですし」
「兎も角頼むよ。このままじゃ、目聡い連中の話題になるのが目に見えてるから」
「承知しました。ラボに特急でやるよう頼んでみます。出来次第、会社の方へご連絡します」
数日後帰宅の途中で、譲次はカメラ屋に立ち寄った、
ガラス戸越しに店主が会釈した。
店に入ると、早速封筒から写真を取り出し、ガラスケースの上に置いた。
「出来上がりましたが、見て下さい、これ」
譲次は写真を覗き込んだ。
妙な物体と見えたのはボロ布で、何かを包んでいる様子だが、よく見ると先端から白い枯れ枝らしい物が覗いている。
(何だろう。鳥が運んで巣にしたものかしら?)
その時譲次は額に鼻息を感じたので慌てて顔を上げた。
店主の色艶の悪い顔がすぐ目の前にあった。
譲次はガラスケースから退きながら、
「なんだろうね。これ?」
「鳥の巣ではなさそうですね」
店主も同じ事を考えているらしい。
譲次は厭な気持ちになった。
(ひょっとして、登山者の転落死体ではないだろうか?)
それが、つい口に出た。
「ひょっとして」
「ひょっとして、なんですか?」
店主と譲次の目が合う。
譲次の次の言葉を予想していることが、店主の目の表情から読み取れる。
「警察に・・・」
と言い掛けて
(これじゃ、死体かどうかは判らないし、警察も動かないかも)
譲次は兄の幸一の顔を思い浮かべた。
幸一は山梨県警察本部に勤務している。
「警察にしらせるのですか?」
店主がそう言った。
「いや。まだ死体かどうかハッキリしないし、警察も取り合わないだろうな」
「それも、そうですね」
「ともかく考えてみるよ」
そう言って写真を封筒に入れると店のガラス戸を開けた。
外に出た途端、冷えきった空気が譲次の体全体を包んだ。
(早く帰って熱い風呂にでも入ろう。いや、その前に兄貴に電話しなくっちゃ)
帰宅すると夕食もそこそこに、甲府に電話した。
兄の幸一は帰りが遅いだろうから、義姉に伝言を頼もうと思ったが、電話口に本人が出た。
「あれっ、兄貴。随分早いね」
「今日は非番だよ。どうした?」
「非番?警察っていいな。ところで此の前、金峰を撮って来たんだけど変な物が写っちゃってね」
「何がいいもんか、徹夜の後だよ。何だ、変な物って?」
「千代の吹き上げの岩棚に、死体らしいものが」
「死体?ほんとかい?」
「今一つ、ハッキリしないんだけど。写真送るから調べてみて」
「じゃ、送って呉れ。持って来て呉れてもいいが」
「平日は一寸。何せ、休暇を取ったばかりだから」
「判った。宅急便がいいだろう」
「ああ、そうする。姉さんに宜しく」
「うん」
譲次は受話器を置いた。
義姉の声も聞きたかった。義姉と言っても譲次とは高校時代の同窓同期の知り合いである。
片思いのホロ苦い思い出のある相手である。
譲次の兄、幸一は山梨県警察本部刑事部捜査一課に勤務している。
弟の譲次より三歳年上の三十五歳、譲次と同じ高校を卒業すると、持ち前の正義感とスポーツ好きの頑健な肉体を生かすと言って、警察官になった。
県警の警察学校を卒業後、県内の警察署を経て管区警察学校も卒業、警部に昇任、再び警察署に戻り、一年前に本部勤務になった。
強行犯捜査七係長として多忙な日夜を送っている。
高卒の幸一が三十半ばにして既に警部の級位を得て、且つ県警本部の係長の職にあるという事は、異例の出世というべきで、如何に試験勉強に打ち込んだかが想像される。勿論、妻頼子の内助の功があっての事だった。
幸一は、がり勉タイプに有り勝ちの、使い物にならぬ捜査官や、キャリア組のボンボンと一緒にされては叶わぬとばかり、仕事には人一倍熱心に取り組み、現場第一主義を信奉して来た。