黄金の秘峰 上巻
コン、コロコロコロ。
コン、コロコロコロ。
物音に気付いて譲次は目を醒ました。
実は先刻から妙な音が頭の真上で続いているのを、夢うつつに聞いてはいた。
止んだかと思うと、又、始まる。
コン、コロコロコロ。
腕時計を見ると、夜光の針が午前一時を指している。
(こんな夜中に一体何の音だい?迷惑な!)
そう思って、天井を睨み付けた。
その途端、又、
コン、コロコロコロ。
譲次は音の原因について色々思い巡らした結果、
「ゴルフボール」
だと気付いた。
(誰かが上の階でゴルフの練習をしているに違いない)
譲次はフロントに電話した。
「真上の階でゴルフの練習をしている奴がいる。うるさくて寝れないので、すぐやめる様に言って呉れ」
「承知しました」
どこかで、電話のベルが鳴った。
様子を窺っていると、それきり音はしなくなった。
譲次は安心して、目を瞑った。
途端に枕元の電話のベルがけたたましく鳴った。
びっくりして、受話器を取った。
「ああ、もしもし、夜分遅くすんません。真上の人間ですが、先ほどは、安眠妨害をして、大変申し訳ありませんでした。もう、やりません。ゆっくりお休み下さい。どうも」
「はあ・・・」
譲次は自分の返事が間が抜けて聞こえた。
もっと、返事の仕様があっただろうに。
一言苦情を言うとか、怒鳴るとか。
(昼間の香港マフィアの話から、急に怖くなって来たのかな)
怒鳴った相手が、日本のY組とかS連合会の怖いお兄さんだったら大変なことになると、用心深くなったのかも知れない。
翌朝、中二階のレストランで中華粥を啜っていたら、フロント係りに連れられて大きな人影が近づいて来た。
「お早うございます。昨夜は大変失礼しました」
譲次のテーブルに覆い被さるようにして、黒と黄の太い縦縞が深々と頭を下げた。
(あっ、「近寄ると危険」のおっさんだ)
譲次は一瞬身構えて、持っていたスプーンを無意識におっさんの顔面に突き出した。
おっさんは、驚いて体を起こし、譲次の顔を眺めていたが、
「席が空いている様ですね。座っても良いですか?」
「はあ、構いません」
おっさんは、腰を下ろすと手を振ってウェイトレスを呼んだ。
「あのな、パンとコーヒー呉れや」
「パン?」
ウェイトレスはパンの意味が分からない。
譲次が、
「ブレッドだって」
と助け舟を出した。
「ああ、ブレッドですか」
ウェイトレスはそう言って、譲次に笑顔を見せて立ち去った。
「ああ、どうも有難うございます。助かりました」
「いいえ」
「ご出張ですか」
おっさんが聞いて来た。
「ええ、そうです」
「良いですね。英語が喋れると」
「いや、それほどでも」
「わしなど海外は初めて。サッパリ分かんなくて苦労してます」
「こちらへは、観光で?」
「ええ、まあそんなところで」
譲次は、テレビで見たと言いたかったが、暴力団だった話は具合が悪いので止めた。
「そうですか。ゴルフをおやりの様ですね?」
「いや、それが全然やったことがないです」
「昨夜は、アプローチの練習をなさってた様ですが?」
「はあ?アプローチって何ですか?」
「グリーン周りでのショットですが」
「グリーンとは緑のことですな。ショットはどういう意味ですか?」
譲次は困った。
ここで、ゴルフ用語を一々説明していたら、お粥が冷めてしまう。
冷めたお粥ほど不味い物はない。
そこへ、おっさんの頼んだパンとコーヒーが運ばれて来た。
「おお、来た、来た!」
そう言っておっさんは餓鬼のようにパンにかじり付いた。
相当空腹だったらしい。
おっさんは一気に食べ終わると、
「わしね、この二日間何も腹に入れてないんですよ。飛行機の中で食ったのが最後でした。昨夜も腹が減って寝れないんで、貰ったボールを床に転がして気を紛らしていたんですわ。ゴルフツアーとかいうんで来たんですよ。仲間は香港の知り合いの所に泊まっているんですがね。わしはホテルで待機ということで、それっきり連絡がないんですよ。昨夜、日本語の電話で注意されて実はほっとしたんですわ。日本人の従業員がいるなんてことも、わしは知らなくって。ともかく、こうやって日本の人と一緒にいれば安心ですわ。あんたさんのお蔭で、やっと飯にありつけやした。本当に有難うさんでござんす」
そう言うおっさんの目は気のせいか幾分赤くなっている。
(感動の涙か、否、待てよ。只の寝不足かも知れん)
それにしても、譲次は驚いた。
二日も食事抜きとは恐れ入った。
(いくら言葉が分からなくとも、何か方法はなかったのか。ゴルフツアーと言いながらゴルフのゴの字も知らないとは妙な話だ。ほんとうの処、香港へ何をしに来たのだろうか。それに仲間というが、何の連絡もないとは、ひどい話だ)
急に、このおっさんが哀れに思えて来た。
(この阿藤快のような大男が、これっぱかりのパンで足りる訳がなかろう)
と思った。
もっと栄養のあるものを腹いっぱい食わせてやりたくなった。
ウェイトレスを呼ぶと、譲次はいきなりビーフステーキ、ポークソテー、ラムステーキ、チキンソテー等など、片っ端から注文した。
おっさんは目を丸くして言った。
「いやあ、お粥の次は、肉類ですか?凄い食欲ですな。若い人は良いですね。わしなどは、和食専門で、其の上、大の肉嫌いと来てるんですから始末が悪いですよ」
(しまった!)
譲次は後悔した。
どう頑張っても一人では食いきれない量である。
自分のそそっかしさに、今更ながら呆れるのだった。
其の日の夕方だった。
譲次は挨拶がてら支店に顔を出し、後任の後輩と近くの四川料理屋で夕食を済ませ、ビルに囲まれた広場を横切ろうとしていた。
突然後方が賑やかになったと思うとバタバタという足音が聞こえて来た。
譲次は振り向いた。
黒と黄の太い縦縞の上着「近寄ると危険」が大きな体を泳ぐようにして懸命に走って来る。
その後ろを四、五人の若い男達が大きな声で何か喚きながら追いかける。
譲次達の傍を走り抜けようとした時に「近寄ると危険」が何かにつまずいて転倒した。
追ってきた男達が其の上に重なる様にのし掛かった。
下敷きになった大男の目がチラッと譲次を見上げて一瞬驚いた表情をみせた。
何かを訴えたい目付きになったが、すぐに下を向いてしまった。
譲次を巻き添えにするのを恐れた様子だった。
男達は、静かになった「近寄ると危険」を広場に面したビルの一階の夜総会に引っ張って行った。
(一体彼に何が起こったのだ?)
名も知らぬ男ながら、その身の上に何か不穏な事態が起こっているらしいことが気になった。
彼は、仲間から何の連絡もなく一人ホテルに放って置かれているようなことを言っていたが、其の仲間たちに会えたのだろうか?
追って来た男達がその仲間なのだろうか?
それにしても、乱暴に引っ張って行った様子から察するに、仲の良い仲間とは思えない。
それに、あれは日本人ではなかった。
彼等の話す言葉は広東語だった。
譲次は、夜総会の入り口をジッと見詰めた。
開店直後の入り口には、未だ客の姿は見えなかった。