黄金の秘峰 上巻
駒井が日頃から森山をないがしろにし、折あらば社長の椅子を奪おうとしていることに気付いていた。加えて森山が死んだ時部屋を出てゆく駒井の横顔に笑いが浮かんでいたのを思い出した。
(其の上、あの刑事は森山が助かったかもしれないような口振りだった。川合とかいう言う医者も憎い!)
しかし、森山の死が何故これほどまでに自分に大きな喪失感を齎すのだろうか?
郁子は、日頃の森山の様子に早々と亡くした自分の父親を思い描いていたのではないかと、気付くのであった。
郁子の住むマンションを二人の刑事が訪問した。
「森山郁子、さんですね?ご同行願います」
郁子は無言で頷くと、警察の車に乗った。
今回はK署の取調室に通された。
生まれて初めて入った其の部屋には窓もなく、机と二つの椅子が置かれているだけの、殺風景なものだった。
暖房が余り効いておらず、腰掛けたスチール椅子が冷たい。
大通りを走る色々な車の騒音が聞えて来る。
普段は気にも留めないそんな騒音すらも、今の郁子には懐かしく感じられ、歩いているであろう見知らぬ通行人達も、皆一様に幸せにちがいないと思えてくるのだった。
自分だけが狭い部屋に隔絶されているかと思うと、急に切ないものが胸に込み上げて来て、涙が溢れて止まらなかった。
罪を犯した人間が味わう疎外感と言うものであろうか?
机を挟んで質問が始まった。
郁子の身分関係について詳しく聞かれた。とくに経歴についての詳しい説明を求められた。しかし、大体は森山が死んだ際に話し済みのことであった。
次いで、昨夜の状況をすべて説明させられた。
郁子はすべて包み隠さず話した。
しかし取調官は疑わしげな表情でこう言った。
「奥さん、睡眠薬じゃ人は殺せないよ。数十錠、いや、数百錠を飲まんことには死なないよ。駒井社長の死因は睡眠薬じゃなく、青酸カリによる中毒死なんだよ。あんたは睡眠薬をブランデーに混ぜたという、確かに酒には溶けやすい。しかし、検出されたのは多量の青酸カリだったのさ。死体の鼻孔からも青酸ガス特有のビターアーモンドの臭いがしてたしね。本当は青酸カリを混ぜたんだろ。正直ついでに其処のところも、本当のこと喋ってよ。何処で手に入れたのかね、青酸カリを?」
郁子は驚いた。
青酸カリなど、これまで目にしたこともない。何かの間違いに違いない。
「青酸カリなんて。私は知りません。嘘じゃありません」
「知らない。じゃ、その睡眠薬とやらは、何処で買ったのかね?」
「買ったのではありません。家にあったものです。森山が時々眠れなくて」
「亡くなったご主人が?」
「はい、そうです」
「しかし、そうだったら、ご主人がそれを使った時に死亡した筈だけどね」
「最近は不眠で悩むこともなかったものですから」
「一体いつごろからお宅にあったのかな?」
「さあ、それはハッキリ判りませんが、どなたかが備えておいて呉れたのだと思います。壜に睡眠薬と書いてありました」
「判らないって、あんたは奥さんだろ。ご主人の薬を他人任せにしているのかね?」
「そう言う訳ではありませんが、他の薬も何種類かありますので細かくは管理し切れませんでした」
「しかし、どうも合点が行かないな。奥さんの話は」
取調官は思った。
(こんな綺麗な顔してよく人を殺すな。それに、よくまあ、こうイケシャーシャーと嘘がつけるものだ。全く人間と言うのは見掛けじゃ判断出来ぬ生き物だな)
郁子の様子を取調室の一隅で観察していた幸一は考えていた。
森山は自殺に見せかけて拳銃で殺された。
駒井は森山を殺すべく睡眠薬に見せかけた青酸カリを備えた。
通常、睡眠薬は錠剤の筈なので、粉末の青酸カリの容器に敢えて
睡眠薬と書き込んだのであろう。ところが、森山がなかなか飲まないので待ちきれずに拳銃を使って森山を殺したのか。
しかし、銃声がした時、駒井は事務所に居たと他の社員達は証言
している。身内ゆえ、疑えば疑えるが、これが真実とすれば、他に犯人がいることになる。
(それは、誰か?)
また、郁子は駒井を森山殺しの犯人と思い込み、復讐の積もりで睡眠薬を使って駒井殺害を決行した。ところが、実際は青酸カリだった。
となると、駒井の死は言わば偶然事で、青酸カリを自分で放置し
ておいた間抜けな結果となる。
この場合、郁子の罪はどうあるべきか?
犯意があったことは明らかだが、本人は睡眠薬を用いた積もりだ
った。睡眠薬では容易に人を殺せない。中身が青酸カリでなければ、駒井は死ななかった。
という事は、過失によるものというべきか?
しかし、過失致死は、犯意がなかった場合のことである。
では、犯意のあった郁子の場合はどうなるのか?
情状酌量の余地がないのだろうか?
幸一は警察の人間として、後ろめたいものを感じていた。
あの担当官が郁子に他殺の可能性などを漏らさなければ、彼女も殺人を起こさなかった筈だからである。
第四章 黒社会
屹立する巨大な石塔を思わせる高層ビル群を眼下に、機は大きく傾くとぐんぐん降下しビルの屋上を掠めるようにして、海上に突き出たカイタック(啓徳)空港へ滑り込んだ。
香港のこの空港は世界でも稀に見る着陸の難所と言われている。
近い将来、近くの大きな島の海辺にゆったりした新空港が完成し、中心地とは鉄道で連絡されるようになるとマスコミは報じている。
譲次は手荷物だけの身軽な出張なので、観光ツアー客でごった返す荷物受取場を尻目に、税関のゲートに走る。
到着ロビーに出ると、すぐタクシー乗り場に向かった。
数年前、このロビーでどれほど多くの来客を出迎えたことか。
「タイクー・クォンチョン(太古広場)」
タクシーは春節で賑わう香港の雑踏の中を掻き分ける様にして進む。
もっと走りやすい大通りを避けて、何故こんな商店街を行くのか譲次は知っている。
これが近道なのである。
広東語で行く先を伝えたのも、その為である。
英語でパシフィックプレイスと言えば、先ず遠回りの大通りを行くだろう。
約二十分後に米国系の高級ホテルの正面玄関に横付けになった。
ここは香港島である。
空港はカウロン(九龍)側である。
ホイタイ・ソイトウ(海底隧道)で繋がっている。
譲次は三年程香港支店に駐在していたが、その間このホテルの上層階にあるホテルマンションに住んでいた。
1LDKで二部屋から成るスイートルームだがバス・トイレ・キッチン付、ホテル同様毎日掃除、シーツの取替えもあり実に快適な生活が送れた。
三十五階からの眺めは素晴らしく、裏側の大きなガラス窓から足元を見下ろすと遥か下の方に真っ青な水をたたえたホテルのプールが見え、その周囲には宿泊客の西洋人達が寝椅子に転がって甲羅干しをしている。
目を正面に向ければ山の中腹の緑の中に白い別荘風の建物が見える。たしか、あの辺りには山腹を周回するジョギングロードがある筈だ。
目を上に向ければ、サンテン(山頂)に豪奢な白い建物がチラホラし、其の中でも特に目立つのが、元ホンシャン(香港上海銀行)の支配人の邸宅だったという、大きなガラス窓を持つ豪壮な白い建物である。