黄金の秘峰 上巻
「ところで、其の時ご主人は全然動きませんでしたか?」
「えっ、死んでる主人がですか?」 「はい。コメカミを撃った人間が暫くは生きていた例があります」 「じゃ、まだ生きていたのかも知れないんですか?」 「医者は何と言っていましたか?」 「ええ、あの時は気が動転していて、よく覚えていませんが、専務の駒井がチャカはまずいと言うと、お医者様が警察は誤魔化せないとか仰言ってました」
「なるほど。で、医者は森山さんを調べていましたか?」
「いいえ、特に丹念には調べてはいなかった筈です」 「そうですか。それから、付かぬ事をお聞きしますが、お宅には裏口と言うか、裏木戸などはありますか」
「はい、あります」
「その木戸には鍵などが掛るようになっていますか」
「ええ、いつも店の者が必要以上に気を配り、勿論鍵もしっかり掛けております」
「そうですか」
担当官は犯人は内部の者との確信を得た。
幸一も同じ感触を得た。
社長を殺害するほど恨んでいたのは誰か?
それとも、怨恨ではなく社長の椅子を狙っての殺しか?
そうなると、社長に最も近い駒井文治だろうか?
駒井文治に再度当たるしかあるまい、と考えた。
「奥さん、今日はひとまずお引取り下さい。お疲れ様でした」
郁子の消沈して帰って行く後姿に幸一は胸が痛んだ。
夫を亡くした悲しみに打ちひしがれる様を妻の頼子に重ねると、やり切れないものを感じるのだった。
駒井文治は先刻から落ち着かぬ風情で部屋の入り口ばかり気にしている。
今夜の宿泊を約束した郁子が予定の時間を過ぎても未だに姿を見せないのだ。
まさか、折角の約束を反古にする積もりじゃなかろうが、それにしても遅いと、愈々焦りが頂点に達した時、 「お連れ様がお着きです」
係りの女の声がした。 廊下の障子が開いて郁子が笑顔で入って来た。 暫く振りに見る彼女の美しさに駒井は息を呑んだ。 同じ和服姿ではあるが、ひと目で高価な品と判る。 森山の世話をしていた頃とは違って、如何にも高級クラブのオー
ナーらしい貫禄が身につき、幾分近寄り難いものを感じさせる。 眩しいものを見る思いの駒井に、
「遅くなって御免なさい。出掛けに一寸と用事が出来ちゃって」
「いやいや、良いんだよ。忙しいあんたに無理を言ったわしの方が
悪いんだよ」
駒井は、慌てて心にもない言葉を口にした。
「あら、そう。じゃ、お風呂にでも入りましょう」
「ああ、風呂。どうぞ」
「いやね、一緒によ」
「えっ、一緒に?」
「そうよ。いいお酒が手に入ったのよ。お風呂に入りながら賞味し
ましょ」 駒井は驚いた。 森山に嫁いでからは、打って変わって素っ気ない態度を見せてい
た郁子だった。
森山の死後も、手を変え品を変え執拗に誘ってみたが、どうしても「うん」とは言わなかった郁子が、どうした風の吹き回しか今回は意外にあっさりと承諾した。
それにしても、ここまで急変するとは想像もしていなかった。 気圧された思いで駒井はコニャックの壜を片手に、郁子の後に従
い貸し切りの家族風呂へ向かった。
(コニャックのラッパ飲みとは、郁子もやるな。まるで銀座の頃に
舞い戻った感じだわい) 駒井は一遍に何年か時間が戻った思いでいい気分である。 渓谷沿いの暗い夜景の中に所々オレンジ色の街灯が点っている。 駒井はそれがこの世の見納めとも知らず、前を行く女はひょっと
して本気で俺を好いているのでは、とニンマリしながら、これから
起こるであろうハプニングに想像を逞しくするのだった。
幸一は一旦本部に顔を出し、目と鼻の先にあるK署に出向く積もりだった。県庁前のバス停で下車し、県警本部のある県庁の玄関をくぐった。席に着くと課長が近付いて来て、
「お早よう。コロシだよ」
「えっ、コロシ?ガイシャは?」
「甲武建設の社長」
「えっ、駒井文治が?」
「ピンポーン、正解」
内心、(何がピンポーンだ)と思った。
この若い課長の能天気ぶりに腹が立った。
幸一にしてみれば、森山章夫殺しの重要参考人と考えていた当人が殺されてしまったのだから、一大事である。
(それにしても、これはどういう事か?)
前社長、現社長と二人も続けて殺したとなれば、犯人は余程甲武建設に恨みをもつ人間だろう。
(連続殺人犯は誰か?)
甲武建設社長の駒井文治が御岳昇仙峡の旅館の風呂場で死んでいた。現場の床にはブランデーが撒き散らされ、殆ど空になった壜が転がっていた。検査の結果、多量の青酸カリが混入していることが判った。
宿の主人の話では連れの女がいた筈だが、どこへ行ったか姿が見えないと言う。部屋に敷いてある寝具もそのままで寝た様子はない。
K署はその女が怪しいと見て、宿の部屋係りから人相を聞き出し
モンタージュ写真を作った。
出来上がったばかりの写真を見た幸一は、それが郁子であることを知って驚いた。
幸一は、事情聴取の際、他殺の可能性もあると担当官が郁子に伝えていた事を思い出した。
(まずい事を言ってしまったな)
と、あの時思ったが、案の定こんな事になってしまった。
取調べに当たっては、余程の慎重さが必要だと痛感する。
郁子は自分の仕出かした事の重大さに今更ながら愕然としていた。
虚ろな眼差しで見詰めるマンションのベランダには、季節外れの
花が冬の冷たい風に微かに揺れている。
結果は事前に分かっていた筈だが、浴槽の縁でコニャック壜を抱えて仰け反る裸の駒井を見て、人を殺す恐ろしさを初めて知った。
我に返り風呂から飛び出すと急いで着物を着て、宿の裏口から走り出た。
裸足に気が付き、再び裏口へ戻った。
幾分気持ちが落ち着くと、素知らぬ顔で玄関へ回り、堂々と外へ出た。幸い、宿の人間には遭わずに済んだが、顔は覚えられていると覚悟は決めた。
(こんな事になったのも、あの刑事の一言があったからよ!)
郁子は、警察での事情聴取の際、夫の森山は自殺とは限らず誰かに殺された可能性もあるとの担当官の言葉に、当初から自殺など有り得ないと思っていただけに、犯人は駒井に違いないと直感した。