黄金の秘峰 上巻
駒井が銀座で出遭った頃の郁子は日本人離れした上背のある洋服の似合う女だったが、森山の後妻に納まってからはすっかり和風に変貌した。
(森山の希望だろうか?)
着物姿で甲斐甲斐しく世話をする郁子を見ていると、駒井は強い嫉妬を覚えたものだ。
悔しさと言ったら、丁度大きな獲物を逃した釣り人の心境である。
そんな事とは露知らぬ森山は、六十半ばの病身の自分を厭な顔一つせず面倒を見てくれる郁子をすっかり気に入り、東京から郁子を連れて来てくれた駒井文治に度々礼を言った。
礼を言われる度に駒井は腹の中で「畜生!」と罵った。
医師の川合がやってきた。
「ピストル自殺ですって?」
「うむ、まずい事をして呉れたよ。チャカとはね」
「警察がうるさいですからね」
「誰が社長に渡したものやら」
「心当たりがないんですか?」
「うちは土建屋だからね。チャカは要らねえよ」
「とにかく警察には連絡しないと」
「何、警察?何言ってんだね、川合さんよ。日頃のお返しが出来るいいチャンスじゃねえか」
「どう言う意味ですか?」
「察しが悪いな。他の病に変えて欲しいんだよ。ウチの親分の薬代をべらぼうな値段で買ってやったり、盆暮れの高い付け届けだって、こういう時に融通を利かせて貰うためだと言う事だよ」
「死因を変えろ、ですか?」
「チャカじゃ困るんだよ。何とかならんかい?」
「この傷じゃ警察を誤魔化しようがありませんよ」
「どうしても駄目かね?」
「済みませんが、無理ですね」
「そうか、どうしても駄目か。それじゃ、仕方ねえな」
駒井はそう言いながら、部屋を出て行く。
(ふふ、くたばったか。これで俺が社長だ)
不謹慎にも顔が自然に緩んで来るのを抑えられなかった。
森山は四、五年前に肝臓を患い一時は入院していたが、病状も幾分回復したので自宅療養に切り替えた。
先妻を失くして永い間独り身で過ごしていたが、自宅療養では身の回りの世話をする者が必要だろうと、専務の駒井が気を利かし郁子を紹介し、後妻として迎えるよう森山に勧めた。
当時まだ四十手前だった郁子は、東京銀座でのホステスを止め森山の元へ嫁いで来た。
かなりの支度金を手にした郁子は、森山がつい最近まで暴力団の組長だったとは知らなかった。
森山は郁子の世話に満足しきっていた。
二度目の青春とか言っていた程だ。
それにしても余りにも短かった結婚生活を経て、森山章夫は、あの世へ送り出された。
暮れも押詰まった或る日、甲府でも有名な甲斐善光寺で盛大な葬儀が行われた。
弔問客の大半が、一見してそれと判る連中だった。
喪主の郁子は、葬儀の雰囲気の異様さから、亡夫の前身が暴力団であることを初めて知った。
一方、焼香をする行列の客は、親戚筋の席に見覚えのある顔を見付けて驚いた。
何かの収賄事件でテレビの画面を賑わしたことのある地元出身の大物政治家、宗田源太郎である。
森山章夫とはどういう関係があるのだろうかと、皆訝しんだ。
森山が病院から出て来た時はすっかり人が変わっていた。病気で気が弱くなったと見える。
暴力団の伝統的な覚せい剤、賭博、ノミ行為、みかじめ料などの収入源も昨今の暴力団対策の強化で警察の取り締りが厳しく急激に枯渇し始めている。Y組、I会、S連合会などの様な広域暴力団とは異なり、一地方の小規模な暴力団は、いわゆる縄張りも狭く組員を養うだけでも苦労するのが実態だった。
森山は、この際、ヤクザ稼業から足を洗い甲武建設の名称の元に土木建設業に進出するのだと言出した。
それを聞いて他の暴力団に鞍替した者も何人か居た。
実は、そうした森山章夫の翻意の裏には宗田源太郎の忠告があったのである。
年も明けて間もなく、甲府市内の某ホールを借りて甲武建設の新社長駒井文治の披露宴が派手に行われた。
駒井は全社員を挙げて社名の通り東京、埼玉方面にも業域拡大を計りたいと演説を打ち、大いに喝采を浴びた。
甲武建設は、事務所を街中のビルに移している。
一方、未亡人の郁子も森山と住んでいた家屋敷を処分し、甲府市内のマンションに引っ越した。
当初は森山の遺産を元手に銀座で店を持ちたいとの希望もあったが、駒井の執拗な説得に負け、結局甲府市内の一等地に高級クラブを開き、オーナーとしての生活を甲府で続けることになった。
新社長駒井文治の乗った黒塗りの社用車が一軒の安っぽい造りの事務所の前に止まった。
入り口の両脇には粗末な松飾が未だ立てられている。
先に下車した若い社員が車のドアを開ける。
踏ん反り返らんばかりに胸を張った駒井が車から降りる。
事務所のガラス戸に手を掛けてから、慌てて引っ込めた。
代わりに若い社員がガラス戸を引いて開ける。
「よっ、青木はいるか?」
「あっ、駒井の旦那!」
事務所に屯していた三人程の若者が奥の部屋へ飛んで行った。
「おやっ、いらっしゃい。駒井さん」
入れ替わりに、黒と黄の縦縞の上着を着込んだ中年男が出て来た。
男の顔を見るなり、
「馬鹿野郎!」
駒井文治が怒鳴った。
小さなテーブルを挟んで粗末なソファーのセットが置かれている。
腰を下ろした駒井の前には青木と呼ばれた大柄の男が肩をすぼめるようにして立つ。
この青木組事務所の主、青木準次である。
いつもながらの一張羅の上着は派手な黒と黄の縦縞模様である。
近々暴力団の青木組を解散することを決めたばかりである。
逸早くテレビ局が取材に遣って来て、僅かばかりの謝礼を置いて行った。
青木は解散に当たっては数人の組員達に僅かながらも餞別として更正資金を渡そうと、カネの工面に奔走していた。
そこへ都合よく、兄貴分の駒井からの依頼が舞い込んだ。
人殺しと聞いて一旦は断ったが、三千万円の報酬と聞いて気持が変わった。
若い頃は組同士の争いで何人かの人間を殺めたこともあった。
背に腹は代えられぬと、森山組改め甲武建設社長の森山章夫殺しを承諾した。
青木なりに考えた末、方法は只一つ、ピストル自殺こそ元暴力団組長には似合いで相応しかろうと、そっと部屋に忍び込むと、うたた寝をしている森山のこめかみ目掛けて至近距離から拳銃を発射した。そして自殺に見せかける為使用した拳銃を森山に握らせ、屋敷の裏口から逃走した。
日頃の森山の屋敷は元暴力団らしく警戒が厳重で裏口も鍵が掛けられているが、予め駒井の手で外されていた。 「チャカを使う奴がいるか。早速警察に痛くもねえ腹をさぐられたじゃねえか。俺んとこはてめえらとは違って立派な土建屋なんだ」 「だが、俺としては他に方法が浮かばなかったんだ。兎も角、兄貴済まねえ。とんだ迷惑掛けちまって。これ、この通り。お詫び致しやす」
そう言って、青木は深々と頭を下げた。
ベニヤ造りのテーブル板に当たり、ボコンと音がした。
折角の「近寄ると危険」も今日は形無しである。