ハイビスカスに降る雪
ユキの華奢な腕は海中に引きずり込まれそうだった。健治はユキの背後に回り、一緒に竿を支えた。ユキの身体は相変わらず冷たかったが、暑い気温と健治の身体から発せられる熱を程よく逃がしてくれた。
ユキが必死になってリールを巻く。魚の体が見えるまでどのくらいかかっただろうか。それでも力尽きた魚は浮いてきた。黄色と黒の斑点に身をまとった美しい魚だ。反転して逃げようとすると、腹部の銀が太陽に反射してまぶしかった。
「よーし、今、タモを入れるぞ」
そう言って健治はタモ網を手にする。魚は翻り、なかなか隙を見せない。健治は釣り糸をグイと引っ張った。すると、魚は海面に顔を上げた。大きな口がガバッと開く。その瞬間を健治が見逃すはずもなかった。長年、海で遊んできただけのことはある。次の瞬間には、魚はタモ網の中に収められていた。
「大きなキビレハタだなぁ」
「キビレハタっていうの、この魚?」
「ああ、高級魚だよ。市場では高値で取引されているんだ」
「それにしても、綺麗な魚ね。私の住んでいたところにはこんな魚、いなかったもん」
ユキが繁々とキビレハタを見つめた。キビレハタはまだ釣られたことが信じられないようで、呆けた顔をしている。鰭は尖っていて痛そうだが、その目は意外とつぶらで、少し突き出た下あごと言い、愛嬌のある顔をしているではないか。
「しかし、こんなところに根があったかな?」
健治は海中を覗き込む。しかし、海は人を吸い込んでしまいそうなほど青い。それは恐ろしい蒼さではなく、澄んだ、命に輝ける青だ。
「あー、面白い。ねえ、もっと釣ってもいい?」
ユキが無邪気な瞳を健治に向けた。
「ああ、いいとも」
健治は魚の切り身を針に付け直すと、櫓を漕ぎ出した。潮の流れで船は少しずつ移動している。そこで、先ほどキビレハタが釣れた場所まで船を戻すのだ。健治は目が良い。遠くに見える西側の丘の高い木が東側の丘の天辺に重なり、島の端の灯台が二軒目の家と重なるところだ。今の漁船にはレーダーが完備されている。しかし、昔はこうやって漁場の確認をしていたのだ。この方法を「山立て」という。
健治は船を元の場所まで戻した。ゆっくりと櫓を練りながら、船が一定の位置を保てるように漕ぎ続ける。
「仕掛けを下ろしていいよ」
作品名:ハイビスカスに降る雪 作家名:栗原 峰幸