ハイビスカスに降る雪
健治にとってのんきに笑っていられないほどホテル問題は深刻なものだったが、ユキから「気が合いそう」などと言われ、照れ笑いを隠せなかった。そんな健治をユキは優しい眼差しで見つめている。
「それにしても、だいぶ沖に出たな。怖くはないかい?」
「私に怖いものはないわ。あるとしたら、人間の暴挙だけ……」
「そうか……。肝が据わっているな。同じクラスの奴でもここまで来ると、大半は不気味がるもんだ」
既に島は遠く離れ、なだらかな丘陵が二つ、女性の乳房のように見える。海の色はどこまでも青く、一点の曇りも、くすみさえも感じさせない。ユキはよほど海が珍しいのだろうか、身を乗り出して海面を覗いていた。
「ちょっと、釣り糸でも垂れてみるかい?」
健治が櫓を休め、釣具に手を伸ばす。随分と使い古した釣具だが、これで大物も手にしたこともあるのだろう、寡黙な職人のような風格の漂う釣具だった。
「魚の切り身を用意してきたんだ」
健治は手際よく仕掛けを結ぶと、餌である魚の切り身を針に付けた。皮の方から身の方へ、中心にまっすぐと刺す。
健治がユキに釣竿を手渡した。
「やってごらんよ。この場所は僕も初めてで、釣れるかどうかはちょっとわからないんだけどね」
「ありがとう。やってみるわ」
「仕掛けを海中に入れたら、リールのクラッチをフリーにして」
「クラッチってどれ?」
健治は事細かに、ユキにアドバイスをする。その時の表情がまた、実に活き活きとしているではないか。
青く澄んだ海底に向かって魚の切り身が踊りながら消えていく。仕掛けが落下していったのだ。
「底に着いたらしばらく待って。それからスーッと持ち上げてまたしばらく待つ。そして、また落とすんだ」
ユキが釣竿を構える。沖に出ても波はなく、のんびりと釣りを楽しむには絶好の日和だ。
ユキが竿をスーッと持ち上げた時だった。
ゴゴン、グググーン!
竿先がひったくられるように、勢いよくおじぎをした。不規則に繰り返すその振動からして、釣り針の先で魚が必死にもがいている様が見て取れる。
「やったー、きたー!」
ユキより健治の方が嬉しそうにはしゃいだ。ユキは釣りが初めてなのだろうか、魚の感触に戸惑っている。
「リールを巻いて!」
「重―い……!」
竿は根元付近から弧を描くようにしなっている。それはまるで、職人が熱いガラスを細工する時のようだ。
作品名:ハイビスカスに降る雪 作家名:栗原 峰幸