ハイビスカスに降る雪
ユキの格好からして、とても漁に出る雰囲気には見えなかったが、船には吹きさらしの釣具が積んである。
健治がもやい(縄)を解いた。そして、櫓をゆっくりと漕ぎ出す。すると、船は舳先を左右に振りながら練り歩き始めた。この時間、ほとんどの漁船はその仕事を終えている。港の中の水面は鏡のように静かだ。そこを伝馬船がゆっくりと滑っていく。それは慌しい時間から逃れる小船のようでもあった。
やがて、第一徳治丸は港の外に出た。港の脇は砂浜になっており、港を囲む防波堤には離岸流という潮の流れが発生している。よく海水浴客が事故に巻き込まれるのがそれで、岸辺から沖合いに向かって勢いよく潮が流れているのだ。健治は船をその離岸流に載せた。すると、船は漕がなくても沖へと流されていく。港の外も凪だった。
「どうだい、気持ちがいいだろう?」
「海もいいわね」
舳先に座ったユキの顔がほころぶ。その顔を見る健治の腕に一層の力が入った。太陽はまだ高かったが、健治の顔は夕陽に照らされたように紅かった。
「私の育ったところはね、森が深くて魚と言えば川にはイワナやヤマメがいたわ」
「ふーん……。この島じゃあ、川魚は手に入らないからなぁ」
「そんなイワナやヤマメも天然物はもうほとんどいないの。いるのは人間が養殖した魚だけ……」
「寂しいもんだなぁ」
「ついに私なんか住家まで奪われたわ。本当、人間って勝手なんだから……」
いささかユキの表情が険しくなった。黒い瞳の中に芯の強さが見て取れる。そこに憎悪が映っていた。それは燃えるような憎悪ではなく、むしろ凍て付くような鋭さだった。
「君はまるで人間じゃないような言い方をするんだね」
「えっ、ああ、ちょっと頭にきてただけよ」
ユキが言い訳っぽく言うと、元の笑顔に戻った。しかし、その笑顔はどこか愁いを帯びている。
「僕だって同じ気持ちさ」
「えっ?」
「この沖縄はね、古代は琉球王朝の時代から侵略され続けてきたんだ。そして、今度はこののどかな島さえもホテルに侵略されようとしている。僕にとっては暮らしだけじゃなくて、資源を脅かす侵略以外の何物でもないのさ」
「ふふっ、私たちってやっぱり気が合いそうね」
「あははは」
作品名:ハイビスカスに降る雪 作家名:栗原 峰幸