「忘れられない」 第一章 始まり
有紀は詳しくでは無いが明雄との恋を人に話している。同じような経験をしてずっと片思いが続いている友人や、不倫で悩む友人たちもいた。いや、そういう人ばかりが親しい友人となっていたのだ。辛い恋の悩みは同じ境遇を経験しないと理解しづらいものだ。哀しみの共有は勇気付けられるし、頑張りを貰える。しかし、50歳になってこれからの自分を考えると、このままずっと想いを引きずって過ごす事は辛くなってきた。
それは、18歳のときからくすぶってきた、明雄への恋心だ。逢えぬ想いを我慢して、母の世話をして、母を見送って気が付いたら自分も大病を患い入院して、仕事も辞めた。女の盛りを忘れるように誰とも恋をすることなく、誰とも身体を重ねる事も無くずっと一人で生きてきた。これからの自分をどうして勇気付けようとするのかハッキリとは見出せないが、とにかく32年間の想いのすべてを捨て去ることで、新しい自分が見つけられることを願っているだけだった。
10月20日が来た。北陸本線で金沢へ行き、観光をしてホテルに泊まった。富山から乗り継いで、鯨波の駅に降りて昔とそれほど変わっていない光景に懐かしさが伝わってきた。海と反対側に大きな楠が茂る寺を直ぐに見つけられた。
寺に続く坂道を登り、人影もまばらな街道を歩く。月曜日の午後、人通りは少ない。周りに新しい民家は少し増えているように感じられるが、寺に向かう細い道はあの時と同じ記憶の道であった。違うのは紅葉している木と自分の年齢だけだった。
「お邪魔します」声をかけて、境内に入った。自分たちが宿泊した時とは少し変わっていたが、厨の入り口から若い女性が出てきて、用件を聞いてきた。
「はい、どのようなご用件でしょうか?」どうやら住職の娘さんか、お嫁さんのような感じに見えた。
「大阪から来ました有紀と言います。訳あって尋ねて参りました。住職様は居られますでしょうか?」
「義父の重徳のことでございましょうか?」
「お名前まで存じてはおりませんが、私が18歳の頃に住職でいらした方にお会いしたいのですが・・・」
「解りました。それなら重徳です。呼んで参りますので、中でお待ち下さい。さあ、どうぞこちらからお入り下さい」
中に入って左側すぐに小さな待合の間があって、そこに通されて住職を待っていた。先ほどの女性がお茶を運んできて、自分は今の住職の嫁だと話してくれた。世代交代したのだ。昔のように今は民宿をやっていなくて、家業に専念しているという事だった。やがて、随分と年老いたあの時の住職が顔を出してくれた。
「お待たせしました。私を尋ねていらしたのは、あなた様ですか?」
「はい、有紀と言います。あの節には大変お世話になりました」
「うむ、民宿をやっておった頃じゃな・・・もう止めて二十年ぐらいになりますかのう。して、ご用件とはなんですかな?」
「はい、32年ぶりにここを尋ねたくなり参りました。私のことを覚えてらっしゃいますか?高校三年生の女子3人で昭和45年8月に寄せて頂いたのですが・・・」
住職は有紀の顔を覗き込むようにしてじっと見つめていた。
「32年前ですか・・・今の息子がまだ生まれる前のことですな。しばらく結婚してから子供に恵まれずにおりましたでのう。それで、何か聞きたいことでもおありですか?」
「いえ、その・・・その時に一緒に泊まっていた青年がいたんです。大学生で自転車で日本一周する途中に立ち寄ったかとかでここにきていたんです。覚えておられませんか?」
「確か・・・石原君だったかな?」
「はい!そうです。覚えてらっしゃるのですね?」
「自転車がパンクしたと言うて、困った顔をしていたから、直す所を紹介してあげたら、礼に泊まると言われましたかな・・・いつでしたかのう・・・ここに立ち寄られて、そうそう思い出しました、あの時に泊まった女性が尋ねてきたら渡して欲しいと手紙を頼まれておりましたわい。ちょっと待っていてくだされ・・・」
重徳はそう言って、席を立ち本堂の方へ歩いていった。紫色の風呂敷に包まれたなにかを携えて戻ってきた。
「これじゃ!忘れる所じゃった。年は取りたくないですのう」風呂敷から出てきた封筒には表に「有紀様へ」と書かれ、裏には「石原明雄」と記されていた。それを手渡された有紀はもう動揺が激しくなり、手に持つことさえ困難な状況になってしまっていた。
「有紀さん、と言われましたね。何か事情がおありのようじゃのう・・・手紙をまずはご覧になられてから、お話を伺いましょう。気を楽になされて、読まれますよう・・・」
「はい、ありがとうございます。突然のことに驚かされております。失礼を致しました」
封筒の封を切り、中から手紙を出して、読み始めた。そこに書かれている字は明雄の字に間違いはなかった。随分久しぶりに眺める文字であったが、その文章を読むにつれて有紀の心は激しく脈打つようになるのであった。
明雄が訪ねて来たのは3年ほど前だったと言う。重徳は一目見てそれが昔自転車のパンクで困っていた石原明雄だと解ったと言っていた。それに、風呂場での事件もあり説教をした事も印象として残っていたらしい。しばらくは世間話をして、思い出話をして、最後に一緒に泊まっていた3人の女性の事を話し、この手紙をそのうちの一人に渡して欲しいと手渡して帰ったようだ。
「住職様・・・いえ、今はお譲りになられたのでしたね。重徳様、明雄さんはどんな様子でしたか?覚えておられますか?」
「そうですのう・・・なんか、考え事をされていたような様子でしたかな。手紙を手渡されたときには、こう申し上げたのです。その女性がここを尋ねてこられると言う確証があるのですか?・・・とね」
「何と返事しました?」
「うむ、自分から尋ねる事は出来ないと・・・そして、必ず来てくれるとそう予感がするのだと。もし私が死ぬまでに来なければ、捨てて欲しいと付け加えられましたな」
「そうでしたか・・・では、読ませて頂きます」
『拝啓、有紀様
初めに私の身勝手をお許しくださいますよう深くお願い申し上げます。
この手紙がいつあなたに届くか解りませんが、健康でお過ごしになられている事を切に祈っております』
から始まって、何故連絡をしなかったのか理由が書かれてあった。そして、最後に、
『あの世であなたを待ち続けています。許されるなら私の許を訪ねて下さい。どんな事をしても今度は必ず幸せにします。添い遂げる事を誓います・・・石原明雄」
読み終えた手紙の上にはっきりと跡が残るように涙がこぼれ落ちた。肩が振るえ、もうその場に座っていることさえ耐えれない状態になった。重徳はそっと肩を押さえて、
「人はみなそれぞれに苦しみを抱えて暮らして居るのじゃ。相手を責めてはいけませんぞ・・・」そう優しく言葉を添えた。
「重徳様、私が何故責めたりしましょうか。勝手気ままな男と女の事、彼に責任なんかあろうはずがございません。お互いに相手を見つけ家族を持って暮らしていることがむしろ自然なことでしょう」
「有紀さん、その通りじゃな。解っておられるようで安心しました」
作品名:「忘れられない」 第一章 始まり 作家名:てっしゅう