「忘れられない」 第一章 始まり
「有紀、来月はゴールデンウィークやろ。考えたんだけど、どこか旅行に行かないかい?まだ言ってないけど、車買ったんだよ、親父が少し援助するからって・・・今月の終わりに来るんだよ」
「へえ〜すごいやん!マイカーやね。何買うたん?」
「うん、去年出たセリカや。色は考えたんだけど、黄色にした」
「コマーシャルでやってる車やね・・・明雄さんはお金持ちなんやね」
「そんな事無いよ。でも自動車メーカーに就職しただろう。みんな車買い始めたから、なんかそういうムードに乗せられた感じやね。どうせ買うつもりやったけど、ちょっと高いものになっちゃったけどね」
「それで行くの?旅行に・・・泊まりやね、もちろん・・・」
「うん、ダメかい?」
有紀はまだ早いと考えていた。手を繋いで、好きと感じあえる関係だけで十分満足していた。さて、どうしようか・・・
「明雄さん、私は行きたいけど、おかあちゃんに聞かんとあかんから、ちょっと返事待って・・・電話してかまへん?二、三日後で」
「ああ、いいよ。ボクから電話しようか?次の日曜日に」
「うん、そうしてくれたら助かるわ、ありがとう」
家に帰って食事の後で母親に相談した。
「おかあちゃん、相談があるねん」
「なんや、改まって」
「あのな、ゴールデンウィークに旅行に行きたいねん」
「ふ〜ん、誰と行くねん、久美ちゃんか?志穂ちゃんか?」
「ちゃうねん、その・・・明雄さんとや」
「なんやて!男の人と二人で行くんか?有紀」
「うちら付き合おうてるねんで、まじめに。お母ちゃんが心配するようなことはせえへんから、行かせて・・・」
「有紀・・・二人きりになったらそんな事守られへんねん。そういうもんや。まだ早いんちゃうか?19やろ今年・・・」
「せやから、変なことはせえへん、って言うてるやん。明雄さん、私が嫌がることしやはらへんよ。信じてあげて・・・」
「有紀、あんたの人生やから強いことは言われへんけど、男の人って言うのはな、身体許したらそれで終わりになることが多いねん。知らんやろうけど、それで泣く女がぎょうさん居てるねん」
「私は泣かへんで。いやな事しやはるような男の人とは付き合わへんし、な?ええやろ」
母親は有紀の熱心な説得に負けてしまった。許すどころか、次の日曜日に掛かってきた電話に、「有紀をどうかよろしく」とまで、言ってしまった。女心なのか、娘を心配する母親として、そう声を掛ける事ぐらいしか出来なかったのであろう。
有紀は明雄が車で迎えに来てくれて、その足で出雲大社までドライブして、縁結びの神様に二人の将来をお願いする予定だと母親に話した。娘の恋心を誰よりも応援している母親ではあったが、実は自分も有紀に話さないといけない事があったのだ。
窓を打つ雨音で明け方に目が覚めた。ゆっくりとベッドから起きて窓にかかっているブラインドを開く。うっすらと朝日が差しかけてきた東の空は少し残っている雲を赤く染めようとしていた。カレンダーをふと見る。今日は9月20日、2002年も残すところ後3ヶ月余りになろうとしている。生まれて初めて大病を患ってしまった。勤務先の会社にも迷惑を掛けているようだ。もう3ヶ月も入院しているからだ。
時折弟とそのお嫁さんが見舞いに来てくれる。母親は十年も前に帰らぬ人になってしまった。再婚してしばらくは楽しい日々を過ごしていたが、持病の糖尿病が悪化し始めてついに透析をしなくてはならなくなっていた。そんな母の看病をしている間に、逢う事も出来ない明雄といつしか連絡もとらない状況になってしまった。彼から来た最後の電話は、海外へ転勤になった。待っていて欲しい、というものだったが、何年待っても二度と明雄から返事は来なかった。
周りからいろいろ縁談は勧められたが、明雄を待っている自分が居ることを捨てるわけにはいかなかった。久美も志穂も良い母親になり、子育てをして今は自由に自分を楽しんでいる様子だ。三人の中で一番早く恋人を見つけ社会人にもなっていた有紀が、こうして一人暮らしをして、入院してしまっていることが皮肉に思える。
そして、今年の誕生日で50歳になってしまった。結婚はおろか、子供を生むことも叶わなくなってしまった自分が情けない。茜色に染まり始めた東の空を見上げて、きっとこの空の続いているどこかで私を待っている明雄さんが居る、そう信じて、哀しみを消そうと有紀はしていた。
有紀の退院は月末と決まった。長く帰っていない自宅に戻ってやることはたくさんある。片付けから初めて、掃除洗濯など。それに仕事にも復帰しなければならないし、考えたら気が重くなってしまっていた。10月1日に仕事先に三ヶ月ぶりに出社した有紀に、人事課の課長は社長からの言葉を伝えた。
「長い間頑張ってこられて、お疲れ様でした。有紀さんの仕事は部下のみんなで手配してこなせるようになっています。戻ってこられたからといって慌ててやることも無いので、身体を気遣いながらやってください」
言葉は易しく言っているが、することは無いよ、窓際になるかもしれないけど、どうするの?といった感じに聞き取れた。有紀は社長と面談して、早期退職の手続きをとり辞職することにした。有給は消化してしまっているから、10月2日付で依願退職という形になった。
家に戻ってきて、何もかも無くしてしまったような気分で塞ぎ込んでしまっていたが、ふと整理していた書棚から出てきた昔の写真に写っていたあの、鯨波の妙智寺での出来事が浮かんできた。
「そうだ、身体を休めたら、一人であのお寺を訪ねてみよう。昔を振り返るんじゃなく、新しい自分のスタートのために区切りにしよう」そう感じられて、計画を練り始めた。新しく仕事を見つけることは難しいが、それはすべて旅から帰ってきてから考えようと、今は決めていた。
民宿に泊まるのではなく、金沢でもホテル、お寺に立寄った後は、湯沢温泉か水上温泉か伊香保温泉辺りに泊まろうとネットで検索しながら楽しみがふくらんでいた。出発は20日日曜日と決めた。紅葉にもちょうど良い時期だし、病から来ている精神的な疲れと、ずっと断ち切れないでいる明雄への想いを忘れることが出来たら・・・と考えていた。
出発の前に久美と志穂にメールをした。「今から旅に出るから、帰ってきたら会おうね」と言う内容だった。二人からは、「元気になってよかったね。楽しみに待っているから」と返事が来ていた。久美は東京、志穂は神奈川に嫁いでいる。最近のやり取りは昔のような大阪言葉一辺倒ではなかった。特にメールでは。会えばやはり三人ともこてこての大阪言葉になるが、何だか昔のような親近感は薄れてきている感じがする。
夫が居て、子供たちがいて、両親や舅姑が居る二人との違いを感じさせられている。一人暮らしの有紀は、同じような環境の女性と友達を広げていったから、話も家族の話題ではなく趣味や旅行や食べ物など、女性が好む話題で占められている。特に、独身女性にとって恋愛の話題は関心事だ。
作品名:「忘れられない」 第一章 始まり 作家名:てっしゅう