「哀恋草」 最終章 それぞれの幸せ
秀衡は人望も厚く、奥州藤原氏を長く栄えさせていた武将である。その死後、息子泰衡の裏切りにより、鎌倉に攻め滅ぼされるまで三代100年の黄金文化をこの地で築き上げていた。文治3年(1187年)のこの年10月、秀衡は病に倒れた。翌年正月秀衡が死ぬと、次男泰衡は義経を鎌倉に差し出す決心をし、平泉を守ろうとしたが、頼朝の目的であった義経成敗がなされた以上、藤原氏は目の上のこぶであるがごときに、攻め滅ぼされた。父秀衡の教えを守らずに勝手な行動をとった泰衡では、頼朝は敵う相手ではなかった。頼朝の執拗なまでの執念が、積年の藤原氏隠滅への引き金になったのである。
京の時政は義経成敗の報を聞き、舌打ちした。おろかな泰衡が100年続いた藤原政権をいとも簡単に潰してしまった事の嘆きより、裏で指揮していた景時の成果を鎌倉が高く評価していることに腹立たしさを覚えたのである。このままでは、景時が中心の鎌倉になってしまう危惧から、守護職をさておき、いったん帰国する腹を決めた。
鎌倉に戻った時政は、政子と緊密に連絡を取り合い何かと頼朝に合議の場で物事を決めるように助言した。景時の暴挙を防ぐ目的と、舅としての地位を知らしめるためでもあった。奥州成敗を果たした頼朝は、ほぼ内乱を平定したと判断し、京に下向し征夷大将軍としての任官を受ける工作をしたが、後白河の反対に思うようにはならなかった。建久三年(1192年)に後白河法皇が崩御すると、頼朝は征夷大将軍に任命され、名実共に鎌倉幕府は磐石なものとなった。
これだけの用意周到な性格で政権を作り上げた頼朝ではあったが、建久十年(1199年)落馬からの後遺症で死亡すると、後を継いだ頼家(頼朝嫡男)は時政の提案による十三人の合議制で政を諮る様にさせられてしまった。この先、北条氏による執権政治を許すきっかけとなった。景時は時政の陰謀を見破り頼家に進言したが、聞き入れられずに、そのまま御家人たちにいい含められ、追討されてしまった。景時亡き後、頼家も出家しその後伊豆に幽閉され殺害された。景時の進言を聞き入れておけば、自ら命を23歳で潰える事もなかったであろうに。しかし歴史は因果応報。三大将軍実朝(さねとも)は兄頼家の後をついだが幼く、母政子が政治を取り仕切っていた。
時政は後添いの牧の方との陰謀が知れ、修善寺に配流され実権は息子義時に移った。実朝は若くして右大臣にまでなった。任官の翌年建保七年(1219年)1月27日雪の積もった鶴岡八幡宮の境内で、頼家の息子公暁(くぎょう)に「父の仇!」と切り殺された。28歳の若さで命を絶った実朝で頼朝が築いた鎌倉幕府は簡単に潰えてしまった。義時に始まる北条執権政治は京の権力争いと共に国内をやがて応仁の乱へと向かわせてゆく・・・
笠置の作蔵宅では、久、光、みよ、弥生と女四人が助け合い主の作蔵を支えていた。妻、桐を病でなくし、親密になった志乃は京で因縁のある佐一郎の頭に殺され、失望の毎日だったが、程なく桐と志乃の一周忌を済ませると、かねてよりの久の申し出を受け入れて祝言を挙げた。久は、自分たちをかばい、命がけで奔走してくれていた作蔵をいつしか頼もしく感じていた。夫同然の勝秀を亡くし、こちらも一周忌を済ませ、自らの気持ちにも整理をつけ、この地での生活を作蔵と手を携えて行きたいとの思いを強くしていた。
「久がごとき女子を可哀想と思し召し、お傍において下されますようお願いは出来ませぬか?」
「久どの、何を言われる。そなたは我が家にはなくてならぬ存在。作蔵がごとき無粋ものには身に余る光栄。そなたがよろしければ、作蔵に依存はござらぬ」
「私はもうお子が生めませぬ・・・それが口惜しゅう思われます」
「わしとそなたにはみよ、光と言う立派な子が居るではないか!それに弥生どのもお子のようなものじゃ。みんなでこの家を盛り立てて長く平和に暮らそうぞ」
「はい、心強きお言葉、久には嬉しゅうございます」
祝言は簡単に行われたが、吉野の一蔵も二人のことは喜んでくれた。義経の死が知らされたが、誰もが二人の慶びに包まれ、それは一時の悲しみでしかなかった。享年31歳の義経は奇しくも大津で自らが討った木曽義仲と同い年で殺された。
奥州の平定で国内に大きな不安はなくなっていた。鎌倉幕府はいよいよ本格的に国家建設のために動き出していた。世の中が平和になり悲しい出来事は次第に作蔵たちの家から消えかかっていた。春は吉野山の花見、秋は嵐山の紅葉と行楽に出かけることも楽しみとなっていた。すっかり成人した光は後白河の口添えにより、法住寺殿へ迎え入れられた。身の回りの世話は子紫が手助けをしてくれていた。久しぶりの再会に、互いの無事を喜びあい心強い仲間となっていた。
みよと弥生は作蔵の傍にいたが、吉野の一蔵がやたらと縁談を持ってくるので、始めは一生懸命になっていたが、不釣合いと言うのか、気に入らないと言うのか、断ってばかりで、さすがにこの頃は一蔵も来なくなってしまった。気軽な女同士、あちらこちらへ遊びに行く二人であった。久は三十路になる二人に早く縁談を決めさせたかったが、苦しい時期を越えて楽しみを見出した二人に、その事を強く言うことは出来なかった。
嫁ぐ事だけが女の幸せになるものでもないと、久は考えている。子供を生み育てることは喜びではあるが、運命の悪戯で時に辛く、時に残酷にその人生が翻弄される事だってあるからだ。自らの生き方がそうであったように、同じ様な道を誰にも歩いては欲しくない願いも重なっていた。若くはない二人だったが、きゃあきゃあと騒いでいる仲の良さは、続いて欲しいと心から願ってもいた。
光が離れて始めての正月、家に戻ってきた光を囲んで久しぶりに全員がそろい話が弾んだ。仲の良い久と作蔵はもうすっかり夫婦と言った様子だ。
「母上様はお幸せそう!光はうらやましゅう感じまする」
「あれ?そのような事を言う光はどこぞに良い人が居られるのか?」
「いえ、そのような事、言っておりませぬ・・・」
「怪しいぞえ?のう弥生どの」
みよは冷やかしていた。
「みよ!久しぶりに帰ってきた光をそのように意地悪言うでないぞ」
「意地悪ではございませぬ。少し、羨ましく思っておるだけです。京に住んで、素敵な殿方をたくさん見ておられようでのう・・・」
「姉上も京に来られませ!弥生どのもご一緒に。光は寂しい思いをしておりまするゆえ。周りは女子衆ばかりで、田舎育ちの私には合わぬ方たちばかり。光が戻りまするときにご一緒なされませ」
「そなたに着いて行って、どこに住まうと言うのじゃ?」
「しばらくはお泊めいたしまするゆえ、ご安心なされませ。住職と相談致せば、良き場所が見つかるやも知れませぬ」
法住寺殿は後白河法皇の住まいである。近習達がたくさん住んでいた。女子衆も身の回りの世話をするものから、日常の取り仕切りをするものまで数多く奉公していた。みんな身分のあるところから来ていたので、光は相手にしてもらえぬことが多かった。唯一子紫が話し相手であったことが救われていた。
「父上、みよは京に光の言うとおりに着いて行ってもよろしゅうございますか?」
作品名:「哀恋草」 最終章 それぞれの幸せ 作家名:てっしゅう