暗闇の中に潜むモノ
残りの具材もなくなり、鍋も底を見せる。その頃になると、部屋の中の空気も弛緩し始める。
そんな空気振り払うように、Mはその話を始めた。
「今日は妙な空気だな」
「ん? 何を突然……」
「なんというか、輪郭がハッキリしているくせに、空気はぼんやりしている。自分だけはしっかりと持っているのに、周りの空気があやふや。なんというか、夢に近いというか、夢とは間逆というか……」
「よくわかんないな。確かになんか変な空気の夜だとは思うけど、これといって妙なことは起きてないよね?」
「確かにそうなんだけどな。今夜は一人で過ごすのはちょっとイヤだったから、お前の部屋に転がり込めてよかったわ」
何をしおらしいことを……。男のクセに、気持ち悪い。
しかし、そういう自分もまた、この夜の空気が少し嫌だったりする。なんというか、うなじの部分がぞわぞわするというか、背筋を何か得体の知れないものが這いずり回っているというか、そんな厭な感覚があったりする。肩甲骨と肩甲骨の間、少し上辺りが凝ったような感覚にも近い。そんな正体不明の感覚に襲われている。それは、コンビニから出た辺りから続いているのだ。
これは、そうだ。心霊番組を見た後のあの気持ち悪さだ。特に、邦画独特のあの空気感、気持ちの悪い間とねっとりした空気、それに似ていた。
台所の暗がりが目に入った時に、その正体に気がついた。
暗闇の中に何かが潜んでいるような幻覚に陥った時、それそのものだった。開いた押入れの隙間、その闇の中から何かが覗いているように感じられたのだ。
今夜は月が明るく、そして闇が濃い。だから、暗がりがいつもより強調され、目に付いたのだろう。それがいつの間にか、人の一番原始的なトコロ――暗がりの中の気配に敏感に鳴ってしまったのだ。
しかし、気配なんてものが正常に機能している現代人は少ない。故に、こうしてただ闇の中を警戒するだけになってしまうのだ。
――そうは言っても、その原因をどうにかすることなど、普通の人間には無理だろう。どうしても暗闇の中に棲む『何か』を人間は妄想してしまう。それは、どんなに科学が進んでも、人が灯りを精神的な要因で欲していることからも明らかだ。
見えないということは不安だ。最初から見えないのならまだしも、人が急に視覚を失うのは、自ら感じ取れる世界の多くを消失することに近い。そして、闇の中というのは視覚を失った世界に非常に近い性質を持つ。今回の恐怖の正体はそれなのだろう。
しかし、今回ばかりは恐怖の正体を知ったからと言って、その恐怖そのものが消えるわけではなかった。なんせそもそも形のないモノだからだ。その正体は妄想そのもの。その妄想を振り払うだけの意志力がない限りは、その恐怖はいつまで経っても付きまとってくる。きっとそれらと折り合いをつけて、人は恐怖を乗り越えていかなくてはならないのだ。
「ところで、こんな怪談があるのだが」
そうまとめた辺りで、Mはその都市伝説を口にした。
「ルームメイトの死っていう都市伝説があってだな」
それは、夜遅くに帰ってきた主人公が、ルームメイトを起こさないように真っ暗なままで寝て、朝目覚めると横には殺害されていたルームメイトがいた。そして血文字によって書かれた「電気をつけなくて命拾いしたね」というメッセージがあった、という話である。
……相変わらず空気の読めない男だった。