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氷解

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 栄太郎が振り返る。すると、律子は柱の陰から怯えるようにして、栄太郎を見ていた。栄太郎はひょっとすると冷ややかな視線を律子に送ったかもしれないと、自分で思った。だが栄太郎は気付いているだろうか。「可愛さ余って憎さ百倍」ということを。
「ごちそうさん。お愛想」
 高橋係長が男性店員に愛想よく声を掛けた。律子は柱の陰から出てはこなかった。苦悶に満ちたその顔はとても客商売の顔ではなかった。

 翌日、栄太郎は昼近くに起きだした。土曜日ということもあり、存分に寝坊をしたのである。いつも土曜の寝起きは悪い。それは、一週間の疲れが取れきれていないからだと、栄太郎自身も思っていた。それほど生活保護の現場は激務なのだ。起きだした栄太郎はのっそりとキッチンに向かう。アパートでやもめ暮らしをする栄太郎のキッチンはお世辞にも綺麗とは言い難い。いや、キッチンだけではない。六畳間の部屋も雑然と散らかっているではないか。
(佐々木の家の方が綺麗だな……)
 栄太郎は思わず苦笑した。律子の困惑した顔が脳裏を過ぎった。
(俺をだましたこともあるが、子どもはどうしているんだ?)
 ふと、そんな疑問が湧いてくる。健一を保育所に預けられるのは日中だけのはずだった。居酒屋の営業時間に健一を預かってくれるところがあるのだろうか。
(友人か、それとも母親か)
 律子と母親の伸江とは出産を機に絶縁状態が続いていると聞いていた。その可能性は低いだろうと栄太郎は推測する。
(友人に健一を預けているのだろうか)
だが、律子は近所付き合いはもちろんのこと、友人らしい友人もいないと以前、栄太郎に漏らしていたことがある。だとすると一体、健一をどうしているのだろうか。そんな、釈然としない疑問を胸に抱きながら、栄太郎はフライパンに卵を落とした。
「あー、いかん、いかん。オフは仕事のことを考えないって決めていたのに!」
 卵を焼くジューッという音より大きい独り言が栄太郎の口から漏れた。
作品名:氷解 作家名:栗原 峰幸