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氷解

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 トーストと目玉焼きと野菜ジュースの簡単な朝食兼昼食を済ませた栄太郎は、散らかった部屋の片隅に立てかけてあるエレキギターに手を伸ばした。栄太郎は高校の時からギターを弾いていた。最初はポップスなどを弾いていたが次第にビートルズに傾倒していった。栄太郎が手にしているギターもビートルズが日本公演で使用したエピフォン・カジノというギターだ。アコースティックギターも持っているのだが、今は実家に置いてある。何せここはアパートだ。アンプにつながずにかき鳴らす、エレキギターくらいの音量がちょうどよい。
 自分の耳を頼りにチューニングを済ませると、栄太郎はギターソロのフレーズを弾き始めた。ビートルズの「ゲット バック」のギターソロだ。映画「レット イット ビー」でもジョン・レノンがエピフォン・カジノを抱え、颯爽とギターソロを弾いている。ビートルズファンならば、お馴染みのシーンだ。
 栄太郎は何故、「ゲット バック」を弾いたのか自分でもわからなかった。ただ、困惑する律子の顔が胸に棘のように引っ掛かり、抜けないでいる。そしてフラッシュバックのように、今まで律子が見せた笑顔や、戸惑いなどの表情が浮かんでくるのだ。
(あの時、追い詰めちまったのかな……)
 そんな、少し後悔に近い念がフッと心の中に湧いた。だが、あの時は仕方なかったと思い返す。一方で、律子の困惑の表情は栄太郎の胸の中で増大していった。いつの間にか、心を縛り上げ、動けなくしていく。
「ゲット バック!」
 近所迷惑も顧みず、栄太郎が叫んだ。ふと、栄太郎はその意味を考えてみる。「ゲット バック」とは「原点へ還れ」という意味もある。
 高橋係長はよく言っていた。「ケースは嘘つきも多いが、何故、嘘をつかなきゃいけないのかを考えろ。信頼関係の第一歩は相手をまず信じることだ」と。
 栄太郎はギターを弾く手を止めた。そして、目を天井に向ける。その瞳にはいくらか力がこもっていた。

「どうだ、土日はゆっくり休めたか」
 月曜日の朝、高橋係長がコーヒーを啜りながら、栄太郎に話しかけてきた。
「いつもは日曜の午後になると憂鬱になるんですけどね。今回は大丈夫でしたよ」
「ほう……」
 感心したように高橋係長はカップを置いた。その目は心から笑っている目だ。どうやら、栄太郎が「仕事の面白さがわかってきた」と思っているらしい。
作品名:氷解 作家名:栗原 峰幸