氷解
高橋係長がニヤッと笑った。栄太郎もニヤッと笑い返す。栄太郎は煙草を吸わない。それでも高橋係長が煙草に誘ったのには理由がある。健康増進法が適用されてからというもの、庁舎内では煙草が吸えなくなった。灰皿は市役所の表玄関と裏口にある。職員が利用するのはもっぱら裏口だ。高橋係長はヘビースモーカーだった。一時間おきに煙草で席を立つくらいだ。もっとも、本人に言わせれば気分転換をして、効率よく仕事をしているのだとか。高橋係長が地区担当員を煙草に誘うことは、そう珍しいことではない。事務所の中ではどうしても肩書きに縛られ、教科書どおりの答えしか返せない時がある。しかし、こうして煙草を吸いながらの雑談ならば違う。本筋からは外れるが、仕事の裏技などを教えられるのである。それだけ、高橋係長は生活保護の業務に従事して長いということになる。
程なくして、市役所の裏口の寂れた扉の前に高橋係長と栄太郎の姿を見ることができる。栄太郎は缶コーヒーを片手に、高橋係長の言葉に耳を傾けている。
「そもそもだな、佐々木にとっての自立とは何なのか。そこを考えないといけない。厚生労働省は少しでも働かせようと躍起になっているが、僅かなパートで無理して働かせても目先のことだけだ。彼女の世帯の自立とは何なのか、何が必要なのか、もう一度検討してみよう」
「佐々木の自立ですか」
「経済的な自立もそうだが、彼女自身が活き活きと生活していけるような自立が好ましいんじゃないかな」
高橋係長は煙草の灰を灰皿にポンと落とした。そして、おもむろに煙草を吸う。紫の煙が筋となって立ち昇り、口からは灰色の息が吐き出される。
「今の佐々木は子どものことで頭が一杯なんじゃないですかね」
「そこよ。子どもの不安を減らす材料をお前は作ってやっているじゃないか。後は本人の問題だ。そこをどうするかなんだ。大きい声では言えんが、あまりギューギューやるなよ。せっかくここまで築いてきた関係が壊れるぞ」
「うーん……、どうやったらいいんですかねぇ。そろそろ俺、煮詰まってきましたよ」
「そうか、今日は金曜日だし、残業もそこそこにして飲みに行くか」
「あ、行きます、行きます」
高橋係長が満足げな顔をして煙草を灰皿でもみ消した。堂々と歩く高橋係長の後に栄太郎が続く。