氷解
明るい声が扉の向こうから返ってきた。佐々木律子の声だ。栄太郎の気持ちはまだ複雑だ。決心と不埒な期待が妙に入り交ざった落ち着かない気持ちとでも言おうか。
律子が扉を開けると、屈託の無い笑顔が栄太郎の目に飛び込んでくる。
(しまった、やられた……!)
長いストレートヘア、大きな瞳、口元から覗く八重歯、そして頬で窪むえくぼ、どれを取っても美しいではないか。栄太郎の男心が揺らぐのも無理はなかろう。
「すみません、ちょっとお話が……」
「ああ、どうぞ上がってください。相変わらず汚い家ですけど……」
「お子さんが小さいうちは仕方ないですよ。子どもは汚すのが仕事みたいなもんだから」
栄太郎はそそくさと律子の家に上がった。普通、生活保護を受けている者は役所の者が来ることを嫌う。生活保護を受けていることを周囲に知られたくないという心理が働くからだ。しかし、律子はいつも嫌な顔一つせず、屈託の無い笑顔で迎えてくれる。かえって栄太郎がコソコソと家に上がるくらいだ。
律子は「汚い家」と言っているが、子どもがいる割には部屋の中は掃除が行き届いている。それは律子のまめな性格によるものなのだろう。
「今、お茶を淹れますね」
「ああ、どうぞお気遣いなく」
それでも律子はお茶を淹れてきた。
「健一君はどうですか」
「ようやく保育所にも慣れまして。でも、まだ『ちゃ、ちゅ、ちょ』がうまく発音できないんですよ。ひらがなもまだ覚えていないし、数字も頭に入っていないんです。このまま小学校に行けるんでしょうか」
栄太郎はお茶には手を出さず、律子の目をジッと見つめ返した。
「大丈夫ですよ。就学指導委員会でもそのくらいのお子さんはたくさんいらっしゃるって言っていましたからね。それよりお母さんが活き活きとしているほうが子どものためになりますよ」
「まあ……」
律子は正座を崩さず、困ったような顔をしている。勘のいい女性ならば、ここで栄太郎が何を言わんとしているかわかったであろう。しかし、律子はそのまま口を噤んでしまった。
「私が何のために健一君を保育所に通所できるようにしたかわかりますか」
「……」
「佐々木さんに働いてもらうためなんですよ」
そう切り出した栄太郎は膝に置いた拳を固く握り締めていた。額には薄っすらと汗が滲んでいる。