氷解
抑揚のない声が押し迫ってくる。栄太郎の持つ、受話器は汗でべったりと濡れていた。
「ですから、仕事の一環です」
「仲良く弁当を突っついてねぇ。夜もイチャついているんじゃないの。佐々木は美人だしさ」
「いい加減にしてください!」
「あんたがそういう態度ならこっちも『市長への手紙』を出すよ」
「どうぞ、ご自由に!」
栄太郎がそういい終えると、電話はガチャンと切れた。栄太郎はそのまま椅子に座ると、しばらく呆けていた。電話のやり取りを聞いていたのだろう。同僚からヒソヒソ話が聞こえる。栄太郎は唇を噛み締めながら、呆けていた。
「北島、ちょっと来い」
その高橋係長の声も栄太郎には届かない。
「おい、北島!」
ようやく栄太郎が振り向いた。その顔はいささか狐に摘まれたような顔をしていたか。こうして、栄太郎は市役所裏口の灰皿の前で、高橋係長に事の顛末を報告することになる。無論、高橋係長には律子から弁当を貰ったことも包み隠さず述べた。
「うーむ、ことによっては『市長への手紙』が来るかもしれないな。お前も覚悟しておけ」
「もしかして懲戒処分とかですか」
栄太郎は少し背中を丸めて、高橋係長の瞳を覗き込んだ。
「そうならないように対策を練るんだよ」
高橋係長が煙草の煙をパァーッと吐き出す。いつものことながら、白い煙は空気と混ざり合いながら、栄太郎の前をかすめていく。
「いいか、近日中に佐々木を自立させて、生保を廃止にしろ。でないと、俺もお前をカバーしきれん」
「無理ですよ。最低生活費(国の基準)まで三万円ほど足りない見込みなんですよ。給与を貰えるのだって、一ヶ月先ですし……」
「三万円くらいなら、そこを何とかするのがお前の腕の見せ所だ。自立させるために会っていたとなれば申し開きも立つだろうが」
「そりゃ、そうですけどね」
栄太郎は気が重かった。ここで無理に辞退届を強要すれば、ようやく開きかけた律子の心がまた頑なに閉ざされてしまうような気がしたのだ。
高橋係長はポンと栄太郎の肩を叩くと、先に事務机へと戻っていった。取り残された栄太郎は「はあーっ……」と重いため息をつくのみであった。
律子から電話がかかってきたのは、その日の夕方遅く、栄太郎が残業している時間であった。律子の口調は慌てていて「変な手紙がポストに入っていた」と言う。栄太郎は朝方の電話の主であろうと推測した。