氷解
生活福祉課の主な業務は生活保護である。生活保護とは日本国憲法の第二十五条の生存権を具体的に保障する制度で、生活に困窮する人々に対し、無償で金銭等を給付する制度である。それは最低限度の生活が営めるレベルのものとなっている。
栄太郎はこの生活福祉課に来て二年になる。生活保護は通称「生保」とも呼ばれており、市役所の中でも不人気ナンバーワンの業務だ。それは常に追い立てられるように多問題な仕事が山積みになることばかりでなく、ケースと呼ばれる受給者や時には民生委員や近隣の住民からの苦情も多いからである。栄太郎は人事異動になった時、まだ生活保護のことを知らなかった。上司から「生保だぞ」と言われて、「市役所で生命保険を取り扱っているんですか」と問い返したほどである。
栄太郎は腕時計を見た。既に針は午後二時を指そうとしている。
「そろそろ、訪問に行くか……」
栄太郎は椅子の背もたれにかけてあった上着を羽織り、ビジネスバッグを無造作にひったくった。
「おう、北島、行ってくるか」
高橋係長が笑っている。栄太郎はいつも不思議に思うのだ。係長クラスともなれば、矢面に立たされることも多く、辛いことは多い。それなのに高橋係長にくたびれた印象や悲壮感はどこにも漂っていない。栄太郎は自分でも、自分がどこかくたびれていることを自覚していたのだ。
「はい。佐々木を何とか働かせたいんですよ」
「そうだなぁ。子どもを保育所に預ける算段までつけたんだから、何とか働かせたいよなぁ」
高橋係長が椅子の背もたれに深く寄りかかって、栄太郎を眺めた。
「まあ、話をつけてきます」
「おう、頑張れや。気を付けて行ってこいよ」
栄太郎は口元に微笑みを浮かべると高橋係長に背を向けた。そして、公用車のキーを取りにいく。高橋係長はしばらく栄太郎の背中を追っていた。口元は少しニヤニヤと笑っている。階段へと続く扉は鈍い音を立てて、栄太郎を吐き出していった。