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氷解

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「だから、何度も言っているじゃないですか。来月の保護費で今月分の過払いを調整させてもらうって」
 市役所の一室の電話口で、栄太郎は口を尖らせた。その口調は懇願するようではあっても、栄太郎の顔は鋭く電話を見つめている。その瞳はどこか恨めしげだ。
「だから、来月の保護費は今月より少なくなります」
 栄太郎がそう言った途端、離れた距離でも罵声とわかる声が受話器から漏れた。栄太郎は苦虫を潰したような顔をすると、メモ用紙に書いた丸を黒く塗りつぶし始める。
「収入があったんだから仕方ないでしょう。それとも何ですか、収入を申告しないで不正に生活保護を受けた方がいいとでもおっしゃるんですか!」
 今度は栄太郎が声を荒げた。事務所の空気に緊張が走る。その緊張を解いたのは、ほかならぬ栄太郎であった。
「あなたがそんなことをできないことは、僕が一番よくわかっていますよ。ね、今月は収入があったんだし、やりくりしてください。働き始めることはいいことじゃないですか。自立の助長が生活保護の目的なんですから、頑張ってくださいよ。応援していますから」
 そう言い終え、栄太郎は受話器を置いた。そして、「ふう」と軽いため息を漏らすと、ぬるくなったコーヒーを口に含む。砂糖もミルクも入れないブラックコーヒーの方が、ぬるくなっても栄太郎には飲みやすかった。栄太郎はそのまま電卓を叩いた。保護費はコンピューターが自動で計算してくれる。しかし、やはり手計算で確認してしまう。そして調書を難しそうな顔で睨むと、「うーむ」と唸った。
「来月は大分、少ないな……」
 栄太郎は記録紙にペンを走らせると、決裁欄に自分の印鑑を押した。そして、パソコンに向かい、数字を打ち込む。栄太郎の大きな瞳が線のように細くなった。

 北島栄太郎はこの帰帆市役所に勤めて五年になる。大学を卒業してからすぐ市役所勤めをしているので、まだ二十七歳という若さだ。だがどことなく、くたびれて見えるのはなぜだろうか。別に身なりが汚らしいわけでもない。風貌が老けているわけでもない。それでも彼にたちこめる匂いがくたびれているのである。いや、栄太郎だけではなかった。彼の所属している生活福祉課のほとんどの課員がくたびれた匂いを放っているのだ。
作品名:氷解 作家名:栗原 峰幸