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僕が許した父

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 僕に気付いた老婆が、人懐っこい笑顔を湛えて近づいてきた。だがその視線は僕の手にあるサンドイッチへと向けられている。
「縁起の悪そうな服を着ている割には、美味しそうなもの食べているね。あたしゃ、もう二日、何も食べていないよ」
 ボサボサの白髪頭に、皺だらけの老婆は笑顔でそう呟いた。その言葉に切迫感はなかったが、空腹であることに違いはないだろう。
「よかったら、お婆ちゃんも食べる?」
 僕は残りのサンドイッチを差し出した。
「あたしゃ、これでも若いんだよ。『お婆ちゃん』なんて呼ばれる齢じゃないんだ」
 老婆のプライドは思ったより高いようだった。それでも笑顔は絶やさない。
「でも、ありがとさん。せっかくだから、もらっておこうかね」
 狡猾だが、どこか憎めない老婆は、皺だらけの顔を更に皺くちゃにして笑った。
 僕も思わず苦笑して、サンドイッチを渡してしまった。
「あー、やっとオマンマにありつけたよ。あんた、いい男だね」
「それはどうも」
 どうやら老婆にとって、サンドイッチが一番の収穫だったらしい。彼女は重たそうな体を引きずりながら、遠藤貝類博物館の向こうへと消えていった。その風景がまるで昭和時代の映画フィルムのようであった。
 僕が老婆を見送っている間も、海からの潮風は僕の髪を撫で続けた。
 何故か老婆の姿が心に焼き付いた。毒づきながらも礼を言い、僕を「いい男」と呼んでくれた老婆とのひとときは、火葬場に向かう前のちょっとした息抜きになったような気がした。
 僕は海をもう一度、見渡すと岩海岸を後にした。

 駅に戻って歩道橋を渡り、真鶴中学校の前から駅の裏の方へ回って歩く。この辺りも、昔はよく自転車で来たものだ。
 僕は火葬場の前で立ち止まった。小綺麗になった火葬場は何だか父には不釣り合いな気がした。
 僕は火葬場の前で立ち止まり、呼吸を整えようと、大きく深呼吸をした。それは大きなため息だったかもしれない。先程の老婆との会話で少し気持ちが和んだとはいえ、やはり棄てた父と対面するのは緊張するものだ。
「柳田光治さんですね?」
 火葬場の入り口にいた喪服姿の若い男が歩み寄って来た。いかにも温和そうな好青年といった印象だ。齢の頃は僕とそれほど変わらないだろう。
「はい、そうですが……」
「初めまして。小田原保健福祉事務所の澤井です。先日はお電話で失礼致しました」
作品名:僕が許した父 作家名:栗原 峰幸