僕が許した父
母はなるべく物音を立てないように、忍び足で歩く。夜勤明けで寝ている、僕への配慮だ。
「母さん、お帰り」
「あら、光ちゃん、起きていたの?」
母が驚いたような顔で僕を見た。
「ああ、寝付けなくってね」
「今夜も夜勤なんだから、横になっておいた方がいいわよ」
母がスーパーのビニール袋から夕食の食材を取り出し、冷蔵庫に入れる。その後ろ姿が平凡で、どこにでもありそうな幸せだった。
僕は怖かった。もし父の死を母に伝え、この平凡な幸せが、一瞬で脆くも崩れ去ったとしたら。そう思うと、躊躇わざるを得なかった。
それでも母の耳には一応入れておかねばなるまい。僕は意を決し、母の背中に声を掛けた。
「あのさあ。さっき、福祉事務所の澤井さんって人から電話があったんだけど、親父が死んだらしいよ」
母の背中が一瞬、ビクッと跳ねた。開け放した冷蔵庫の冷気が伝わる。母の手にはネギが握られたままだ。
「そう……」
母はそう呟くと、ネギを冷蔵庫に仕舞った。そしてそのまま俯き、固まってしまった。
沈黙の時間が流れる。張り詰めた空気が、異様に重かった。
「福祉事務所は骨を引き取ってくれって言っていたけど、あんな奴の骨を拾ってやらなくてもいいよね?」
緊張に耐え切れず、思わず僕は母に同意を求めた。これが僕の本心だ。
しかし母は「はあーっ」と深いため息をつくと、意外な言葉を返したのである。
「あんな人でも、光ちゃんのたった一人の父親なんだよ。私にとっては、もう赤の他人だけどね。お骨を拾ってやるか、やらないかは、光ちゃんが自分で決めて頂戴」
母は僕に背中を向けたまま、力のない声で言った。
僕は混沌とした自分の気持ちが、更に掻き乱されたような気がした。
「だって、母さんにあれだけ暴力を振るった親父じゃないか。僕だって耐えていたんだ。母さんが殴られているのを、ただ怯えて見ているしかないのを。僕だって辛かったんだ。だから、あんな親父なんか死んだって関係ないさ。そうさ、あいつは親父なんかじゃない!」
僕は一気に巻くし立てた。
母は何も言わず、そのまま台所へ行き、昼食の準備を始めようとする。
「母さん、何か言ってくれよ!」
本当はこれ以上、母を追い詰めてはいけないことは承知していた。しかし意外な母の言葉に混乱を来した僕の頭は、目の前にいる母に救いを求めるしかなかったのだ。