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僕が許した父

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「夕方だったら、だいたい空いているから、電話ちょうだいね。メールはいつでもOKよ」
 昌子ははにかみながら、小さく手を振る。
「ああ、必ず黒電話を鳴らすよ。それから、もしよかったら、このフライパンを使ってくれないか?」
「えっ、でも大切なフライパンなんでしょう?」
「マーちゃんに使ってほしいんだ……」
 昌子はしばらく僕の目を見つめた後、コクリと頷いた。そして微笑む。
「私でよかったら、使わせてもらうわ」
「ありがとう」
 僕は夕陽に照らされて、プリズムのような光沢を放つフライパンを、昌子に手渡した。鉄は熱を伝え易い物質である。その鉄を通じてお互いの体温はおろか、気持ちまでが伝わるようだった。
「じゃあね」 
 僕はメトロノームのように手を振って歩きだした。
 角を曲がるまで、何度も昌子の家を振り返る。昌子も貴もずっと僕を見送り、手を振っていた。僕も振り返る度に手を振る。
 角を曲がるのを躊躇った。しかし今はここで足踏みをしているわけにはいかない。僕は断腸の思いで、曲がり角の一歩を踏み出した。  
 僕は茜色に染まった湯河原の町を駅の方へ向かって歩き出した。するとタコ公園の前をもう一度通ることになる。再び公園内に足を踏み入れると、タコの遊具に歩み寄った。そして思い出の染み込んだ、コンクリートの赤いタコをそっと撫でる。
 過去の思い出だけではない。これからも思い出を重ねていくタコかもしれない。そんな思いでタコを撫でた。
 そしておもむろに携帯電話を取り出すと、着信音を黒電話に変更した。そして黒電話が何回か鳴った後に、あのフライパンが僕のところに戻ってくるような気がした。女の予感は当たるというが、時には男の予感だって当たる時がある。
 
 公園を後にし、再び歩きだした僕は喉が乾いていることに気が付いた。
(そうだ。もう一度、大西に寄ってみよう)
 ふと、そう思いついた。室伏さんも「味の大西」に行くと言っていた。もしかしたら会えるかもしれない。
 いつの間にか、速足になっていた。
 信号の角にある「味の大西」の自動ドアをくぐると、お店のお兄さんが「いらっしゃい」と元気な声を掛けてくれた。昼間と違い、客はまばらだ。
「あれ、お兄ちゃん、昼間も来なかった?」
 お店のお兄さんは客の顔をよく覚えているらしい。
「今は空いているから、テーブルでもカウンターでもいいよ」
作品名:僕が許した父 作家名:栗原 峰幸