哀恋草 第六章 京入り
翌朝宿を出発した時政の軍に志乃と弥生はいなかった。すでに先に旅立っていたのだ。京に入った志乃はお互いの無事を祈り弥生と別れた。宇治から木津川を上り、笠置から吉野へと向かう道をたどっていた。山道ばかりで女の足では辛い道のりではあったが、慣れてきたのか足取りは軽くなっていた。時政から聞いていた和束村の村長宅に初めの夜は泊めてもらい、疲れを癒して吉野へ向かった。辺りは雪化粧をしていて肌寒かったが、歩き続けるには却って好都合の寒さだった。
桑名へと向かう街道に出て、志乃は間もなく笠置に着いた。橋を渡る手前で、休息をしていた。なにやら鳥の鳴き声のような違うような音が聞こえてきた。じっと耳を澄ました。これから行こうとする方向から聞こえてくる。それは笛の音色だった。
「なんと!このような山奥で、笛の音が・・・そのような風流な方が住んでおられようとは・・・尋ねようぞ」
そう決心して、笛の音のする方向へと足を速めた。
光はこの頃寂しさから来るのか、毎日のように笛を吹いていた。夕刻の支度を始める前の半時ほどの時間、炭焼き小屋に出かけて吹いていた。ここら辺は一番高くなっている場所でおそらく周囲にまる聞こえになっていたに違いない。もちろん人の棲家はないところではあるが、かなり遠くまで響き渡る、そんな光の美しい音色だった。
後白河法皇の屋敷に入った義経、影光、久の三人は、人目に触れることを避けるために、法皇の別邸に匿われることとなった。深い竹藪の中にある別邸は、人が訪れるような場所ではないので、少し安心できた。何より義経を安心させたのは子どもの頃に住んでいた場所に近いことで土地勘があることだった。
「この地は子供の頃に修行していた鞍馬に近いゆえ懐かしいわい。これから先何が起こるか知れぬが、お互いの命は大切にしなければならぬゆえ、今しばらくの辛抱を頼むぞ」
「影光、心得ましてございます」
「久も同じでございます」
三人は本邸との行き来を極力しないようにした。足を運ぶのは久の役目だった。後白河は表向き愛妾の小紫(こむらさき)を住まわせることにして自身も足を運ぶ理由付けにした。三人と小紫は面識がなかったが、久の居る事で安心できたのか、すぐに仲良くなっていた。付き人として久は小紫と時折京の町へ出かけた。大勢の人々が行き交う加茂川の通りを歩く事が少し前までの自分からは嘘の様に感じられる光景であった。
「久どの、ほれ、梅が咲いてございまする!」
「ほんに!もうそんな時分なんですね・・・月日は・・・早ようございまするな」
見上げた梅の木の向こう側の土手を一人の女がこちらを見ていた。別に不自然な様子ではなかった久たちであったが、弥生の勘が思わせたのか、この二人の帰り道をつけて行った。久たちは背後に気付かぬまま別邸に辿り着いた。弥生は、そこが後白河の愛妾の匿われている住まいだと知って、しばらく様子を見張ることにした。周りに何もないところなので、弥生は不自然に取られないように、暗くなってから別邸の玄関を叩いた。
「夜分に申し訳ございませぬ。旅のものでございますが、急にさしこみが来まして休む所も見当たらず、ご無理を願い問うございます」
そう叫んで扉を叩いていた。門番に来ていた役人がいぶかしい顔で女を見て追い返そうとした。庭先に出ていた久が様子を見て顔を出した。
「どうなされました?」
「はい、旅行くものですが急にさしこみがまいりまして、休ませて頂きたくお願いをしておりました」
「そうでございましたか。ここは普通のお方は入れぬ住まいゆえ、座敷にはお通しできませぬが、離れの茶室は人が居りませぬゆえ、しばしお休みくだされ」
「ありがとうございまする・・・お礼の申しようがございません」
「礼などよろしいのですよ。同じ女子同士、わからぬことではありませんから」
久は弥生を茶室に通して、しばらく痛む所をさすっていた。
「名はなんと申されるのじゃ?」
「弥生といいます」
「私は久です。ここの侍女をしております」
「こちらはどなたのお住まいでしょうか?差し支えなければお教え願いとうございます」
「・・・さる高貴なお方の住まいとだけお答えいたします」
「・・・分かりました。ご無礼お許しくだされ」
「そなたは東の方のご出身ではござりませぬか?」
「あっ!はい、伊豆でございます。京の叔父を頼ってまいったところです」
「そうでしたか、今宵は暗いゆえ共の者を付かせて送らせましょう。もう大丈夫でございますか?」
弥生には久の応対が自分を探っているように感じられた。好意に甘えて出立する事が得策と考え、甘えることにした。門番の役人が行灯を携えて弥生と洛内まで同行した。
表での出来事を久は義経に伝えた。
「そのようなことがあったのか。偶然かのう・・・まさかとは思うが、心せねばなるまいのう」
「殿、女間者が居ると聞きます。一刻も早く北陸に逃れて、奥州を目指しましょうぞ」
影光は自身の直感で京は危ないと踏んでいた。大津に出て琵琶湖を北上し北国街道を奥州まで急ぐ準備を促した。義経は雪深い時期を避けて弥生になってから行く事が望ましいと影光に言い含めた。渋々納得した影光は、久を含めてしばらくの外出を控えるように提案した。そしてそれは義経も同意した。
弥生はたびたびこの別邸を探っていたが、全く動きが無いことに疑いの気持ちを失くし始めていた。京の時政は弥生も志乃からも良い返事がないことを失望していた。やがて景時が数百騎の軍馬を率いて上洛してきた。手荒い方法で義経を探すといきまいて、時政に牽制をかけていた。守護職の立場として景時に先を越されては名が廃ると自身焦りが見え始めていた。如月が終わる頃一通の手紙が時政の所へ届けられた。それは、志乃からの密書で、驚くべき内容が書かれてあった。
「志乃!良くぞやった!さすがはわが愛妾じゃ、愛い奴じゃのう!」
時政は飛び上がって小躍りしていた。義経たちが恐れる事態に急変すことになる。
志乃が笛の音に近づいてきた頃、それは聞こえなくなった。辺りは何もない山道、薄暗くなりかけていたので探す事は無理と考え、そのまま歩き続けた。月夜に照らされて作蔵が炭焼き釜は、はっきりと志乃には見えた。ひと気がないことを確認して、辺りを探った。そして少し離れた所に住まいがあることを見つけた。怪しまれぬように言い訳を考えながら玄関まで来た志乃は、道に迷ってここに来たと言い訳を考えて、挨拶をした。
「申し訳ござりません。開けて頂けませぬか?旅のものでございます」
光が隙間から覗いて旅姿の女性だと見ると、扉を開けた。
「はい、どのような御用でしょうか?」光は訊いた。
「道に迷って夜も更けましたゆえ、一夜の宿を貸しては戴けませぬか?」
「お待ち下さい」
そういって奥へ入り作蔵に許しを求めた。作蔵が相手をして、志乃は中へと案内された。
「主の作蔵です。娘のみよと・・・その妹の光でござる」
「かたじけのうございまする。志乃と申します。吉野への途中道に迷いこのような時間になって日が暮れ困り果てておりました。かような場所に住まいがあろうかとは、九死に一生を得た思いでございます」
「大げさですこと!今夜はゆっくりと身体を休めてくだされ」
作品名:哀恋草 第六章 京入り 作家名:てっしゅう