哀恋草 第六章 京入り
「久殿、京より法皇様のお許しがいただけたので、すぐにでも参る所存じゃ。明日の旅立ちが叶うように準備を任せたいのじゃが、大丈夫でござるか?」
「はい、心得ましてございます。すでに必要なものは備えておりまするゆえ、心置きなくお申し付けくださりませ」
「うむ、安心したぞ。そこもとには苦労かけるやも知れぬ、許されよ」
「お気遣い痛みいります。我らは傍目には夫婦、そのような気遣いは怪しまれますゆえ、お気遣いなく振るまれませ」
「そうであったな・・・では久、と呼ばせてもううぞ」
「はい、殿・・・ではござらぬなあ、あなた・・・でござろうか、ホホホ〜」
その笑い声が可笑しかったのか、義経は声を出して笑った。旅立ちを前にその夜はここにいる皆と酒を酌み交わした義経と久であった。
明日の旅立ちを前に久は藤江を寝所に呼んだ。みよと光も一緒に呼んだ。
「明日の朝義経様と京に向かいます。法皇様のところから無事奥州へと向かわれたことを確かめてより、この地へ帰ってまいる所存です。それまで、今から申すこと皆で守って留守を頼みます」
「久どの、ご安心して行かれませ!みよが光と共に留守を果たしお帰りを心待ちに致しておりまするゆえ・・・」藤江はうつむき加減で話を聞いていた。久が心配をして話しかけた。
「藤江どの、心配には及びませぬよ。久は強い女子でござるゆえ。それより、そなたも吉野へ帰り、一蔵殿にこの儀お伝えして指示を仰ぐようになされませ。頼みましたよ。これを一蔵殿に渡してくだされ」久は今後のことを書いた一蔵宛の信書を藤江に手渡した。藤江の不安は久の心配ではなく、吉野にいる自分たち一族への鎌倉の仕打ちであった。万が一久と義経が捕らえられた時に、吉野にいる一族へ追討が差し向けられたりしないのか、そしてすでにうろつき始めている鎌倉勢の手先が吉野を探索しないかという事であった。武士を捨てて畑仕事に精を出し、平和に暮らしている仲間達が再び追われる身となることへの恐怖が完全には拭えていなかった藤江の思いが、この後悲劇を生むこととなる。しかし、今は久を温かく送り出すように自分を言い聞かせていた。
「久どの、心置きなく義経様をお守り下さいませ。吉野の事は藤江が懸命に守ってまいりますゆえ・・・」
心の中とは違う言葉で久に答えた。満足そうに頷く久の目から、皆との別れを惜しむ涙がこぼれ落ちた。みよも光も同じ思いに涙した。
藤江は吉野への帰り道にいろんな事が頭をよぎり始めた。維盛について福原(神戸)から小舟で辿り着いた熊野からの逃避行。辛く絶望に見舞われていた自分たちを救ってくれたのは吉野の一蔵。その恩を忘れてはならないこと。身を呈して我らの安堵を託した維盛の心情。この地に根付かせようと、懸命に畑仕事に勤しむ夫や子供たち。やっと掴みかけた平和な暮らしを壊してはならないといつも心していた。
我主君の敵であった義経がごときを情勢が変わったとはいえ、味方する羽目になった自分の気持に整理がどうしてもつかないこと。恩義のある一蔵が信頼を寄せている作蔵や久の願いとはいえ、このままではその一蔵すら危険に晒してしまうように思えてならなかった。
吉野川が見えはじめて一蔵が屋敷まであと橋を渡るだけになっていた。橋の中ほどで、藤江は立ち止まり、懐から久より預かった信書を出した。「久どの、許されよ。この身は自分で守りとうござるゆえ・・・」そうつぶやいて、信書を吉野川へと投げ込んだ。ヒラヒラと蝶のように宙を舞い、信書は川の中に落ちた。この時期水かさのない吉野川であったが、うまい具合に流れに乗せて下流へと流されていった。藤江はその行くえをじっと見つめて消え去るまで、そこに佇んでいた。
「これで善し。後は何もなかったことを報告しよう」
帰ってきた藤江を一蔵は温かく迎えた。一族の皆も同じように温かく出迎えてくれた。疲れを癒すように勧められた湯に浸かり、大きくため息をつき、まだ衰えぬ身体を慈しむように今宵は夫に任せようと考えていた。
作蔵とみよ、光たちに別れを告げて、義経と久は旅立っていった。影光は少し先行しながら安全の確保に努めていた。人目を避けるために昼間は山道を、夜は街道を歩くようにした。信楽から草津、大津へと抜け、比叡山を越して京に入る道を選んだ。宇治を通ることを考えれば倍ほど長い道のりになっていた。和束村を通る事は危険に感じた末の判断であった。
残されたみよと光は久の安全祈願を毎日近くの寺に通い手を合わして願っていた。住職が毎日来る二人を見て声をかけた。
「何か願い事がおありの様子じゃな、違いますかな?」
声をかけられて少し驚いたみよは、とっさに思いついた言葉で答えた。
「はい、母様のご病気が早う良くなることを願っておりまする」
「そうであったか、感心じゃ!経を唱えて進ぜよう・・・母様の名はなんと申されるか?」
「・・・久、といいまする」
「久、どのじゃな。手を合わせて願いなされ」
住職の経読みが始まった。二人は思わぬことに戸惑いながらもありがたく経を聞いて、手を合わせ、久の無事をより強く願っていた。義経たちは旅立ってから三日の日数で京にたどり着いた。言いつけどおりに久一人で後白河の屋敷に行き門番に義経の書付を法皇に渡すよう頼んだ。小半時ほど待たされて、先ほどの門番が今度は法皇の書付を久に渡した。頭を深く下げ、その態度は慇懃であった。久は同じく頭を下げその場を去った。書付には裏木戸を開けておく旨が書かれてあった。三人は指示されたとおりに夕刻の時間に裏口から通され、法皇に拝謁した。
年頭の挨拶が終わって一段落した時政は、景時に先行して鎌倉を発った。総勢千を超える進軍は道々に風評を走らせ、本体が着くよりも早く京に情報が伝えられていた。暦が如月に変わろうとする正月の暮であった。
道中時政に追従している二人の女子がいた。名前を志乃と弥生と言った。志乃は細身で清楚な出で立ち、弥生はふっくらとした愛くるしい出で立ちをしていた。どちらも時政のお手つきになっていたが、仲は良く嫉妬する気持ちは持ち合わせていなかった。京に入ろうとする前の日の夜、時政は宿所の部屋に二人を呼び寄せ、頼み事をした。
「志乃、弥生、わしのいう事を良く聞いてくれ。これは鎌倉殿の命じゃとも取られよ!良いな」
「はい、心して・・・」
「はい、弥生も心して・・・」
「うむ、昨今殿には九郎殿の行方が解らぬ事で苛立っておられる。そこでじゃ、おぬし達は手分けして京と周辺を歩き、九郎殿と接点のある女子を見つけ出して欲しいのじゃ。景時の話から、大体の見当はつけたゆえ、まずはその方面に足を運んで生活を共にし信頼を得よ。然る後、聞き出すのじゃ、分かったかのう?」
「志乃は心得ましてございまする、弥生はどうじゃ?」
「弥生も心得ましてございまする。してその行き先はどちらでございまするか?」
「耳を貸せ・・・近こう寄れ」志乃の耳元で「吉野じゃ」、弥生の耳元で「後白河邸じゃ」と言い含めた。
時政はその夜志乃と弥生の二人を抱いた。長い別れになるだろう気遣いからだ。老体に鞭打って二人共に満足を与えた。
作品名:哀恋草 第六章 京入り 作家名:てっしゅう