哀恋草 第六章 京入り
女好きの時政と、これまた同類の頼朝の二人は、顔を見合わせてなにやら頷き、時政に密命を与えた。鎌倉から時政と同じくして数人の女子衆たちが京に向かって上り始めていた。
平城から戻った久は一蔵に自分の見たことを話し作蔵の所に出かける許しを得て維盛の家臣であった一人の妻、藤江(ふじえ)を連れて出かけた。藤江は久と同い年で、話も良く合う仲だった。久も藤江も30を半ばにして回りの村人とは全く違う若さと品を備えていた。
「久どの、私をご一緒していただけるのはどうしてですか?」
「特別な事はないのよ。作蔵様のところで大切なお話が出来たら、そなたに立ち戻って一蔵どのに伝えてもらいたい、と思っていますの」
「久殿はお戻りにならないのですか?」
「次第によっては・・・ですが、そのようになるやも知れませぬゆえ、お頼みしました」
「・・・何かとても大切なことがあるのですね。平城で見た源氏の兵に関係があるのでしょうか?」
「それはまだ言えませぬが、これからの事は命に変えても守らねばならぬ大切な話ゆえ、向こうに着いたら久と共に気配りを願います」
藤江は久の話しぶりが普段と違う物腰になっていたことを強く感じた。何か自分に難儀が降りかかるのではないのかという心配も頭をよぎった。日が落ち始めて辺りが夕闇に包まれようとしていた申の刻(午後4時ごろ)に作蔵の住まいに着いた。玄関を叩くと、光が顔を出した。
「母上!母上ではございませぬか。中へお入り下さいまし」
チラッと藤江の顔を見て、ご一緒に、と声を掛けた。
中に入って藤江は作蔵とみよ、光は見知っていたが、義経と影光は初顔であった。居間に通され、二人を紹介されたときの衝撃はこわばった表情からそこに居た皆に知れ渡った。久はそのことで義経に向かって口を開いた。
「ここに居る藤江の夫は維盛殿が家臣。無念の入水を遂げられて久しいがそなた様への憎しみは消えることがない一人でございます。しかしながら、今は同じ追われる身の上。わが殿勝秀さまも含め我らがおん敵は、鎌倉だけになってございます。藤江がこのことを承知いたすにはいま少し時が必要でござりますが、そこのところはお察ししていただきとう、願いまする」
「久どの、そなたの申し出もっともでござる。藤江殿とやら、主君維盛殿の入水は義経も心が痛みまする。鎌倉への武勲を焦るがように、争って追い詰めたこの身が、まさかに追われる身となりえようとは考えもせなんだ。この身が戦い傷つけた数多くのそなたたちの一族に対して自分のこれからの行いで償って行かねばなるまいと、心しておる次第じゃ」
義経は急速な攻撃の末に大切な天皇家に伝わる神器の1つを瀬戸内海に沈め失う事になったし、幼い安徳天皇の入水も防げなかったことを話した。戦いはもちろん勝つことが前提だが、人の命は何物にも代えがたい尊いものであることを全ての人々が知り、必要でない殺傷は避けるべきだと今は考え始めていた。そして身を影光と共に奥州に寄せることを密かに決めていた。
藤江は義経の言葉に気持ちが少し和らぐようになっていた。作蔵が気を利かして今宵は仲間が増えたので宴を催そうと切り出した。こんな時ほど楽しく騒いでお互いの心をひとつにして難局を乗り越えることが肝要と考えたからだ。光とみよ、久と藤江も手伝って厨は大騒ぎになっていた。都会ではめったに食べれない猪肉の鍋を振舞った。この時期味噌鍋は体が温まる。最高の贅沢に舌鼓を打つ義経であった。
宴の席で久は平城で見てきたことを話した。そして追っ手が吉野に近づくことは時間の問題であることも述べた。彼らの目的が義経である事は明白のこと。この地から逃れることを勧めた。そして、旅立ちには夫婦連れの方が怪しまれないことも付け加えた。
「みよは大切なこの家の娘。義経様の安全な地までのお傍はこの久が命に代えてお供しとうござります。影光殿は身軽ゆえ、先行して我らが進路を安全にお導きくだされとうございます。この事は吉野の一蔵が思案にござりまするゆえ、お気遣いには及びませぬゆえ」
「久どの、何故そのようにこの身を案じてくれるのか?義経には過分に当たると思うて返答に困るがのう・・・」
「光とわが身が受けた一蔵殿が恩義に答えるべき時が来ただけのことにござります。ご安心召されませ。武家に生まれたこの身、恩義の大切なこと肌身に染みてござりまするゆえ」
「なんという、そこもとの主人・・・勝秀と申されたのう、幸せものじゃ。久しぶりに義経感激いたした。この身必ずや安堵の地へ着こうぞ!」
光は母のこのように気強い態度を心から尊敬した。同じ武家の娘として自分も恥じないように振舞うことを肝に命じていた。みよは、自分の無力さと、久の強さに天と地を知った。武家とはこのように気高い種族なのかと自分にない血の違いを受け入れざるを得なかった。
義経たちは正月を作蔵のところで過ごし、年が明けてすぐに久を連れて京に後白河を恃みに旅立つ手はずをしていた。先行して影光は京に忍び、後白河と面識がある事を伝えに屋敷に入った。直接に法皇に義経からの親書を手渡し返事を待っていた。
「待たせたのう、影光。これはわしからの返答じゃ。九郎に渡すように。近く鎌倉から守護職(北条時政)が手勢を引き連れて上洛するゆえ、早いほうが良いのう。そう申し伝えよ」
「はい、ありがたきお言葉、早速に戻りまして伝えまする。では御免こうむります・・・」
「待て!表は危険じゃ、裏口から出よ。守護職が到着した後は警戒が厳しくなるゆえ、出入りは女子に命じられよ、良いな!」
「はい、重々のお言葉痛み入りましてございます」
影光は法皇の義経に対する温かい心遣いを身に沁みて感じていた。我が殿は決して争いごとが好きな野蛮な武人ではないことが、法皇の気に入られている部分でもあると信じていた。鎌倉に知れたらたとえ法皇といえども幽閉にされようことは想像できるから、今こうして助力をいただけることは、二人の関係が強い信頼と愛情に支えられていることだと、改めて感慨を深くした影光であった。
夜道を走り次の日の夕方には作蔵の屋敷に戻ってきた。松の内が明け日差しが少し和らいできた庭先で光とみよは作蔵の薪割りを手伝っていた。影光の姿を見つけて、光は家の中に入っていった。
「義経様!影光殿がお戻りになられました!」
よく響く声でそれは義経の耳に入った。
「影光か!大儀であったのう・・・して首尾はいかがであったか?」
「申し上げます。法皇様ご機嫌うるわしくあそばされ、殿の身上を案じられ我らの恃み聞き入れていただきましてござりまする」
影光は渡された信書を義経に手渡した。そこには義経の身の上を心配する法皇の心遣いが認められていた。深く頭を下げかつて自分を高く評価してくれた法皇の優しさに涙がこぼれた。
「義経は幸せ者じゃ。このような身になっても案じくださる法皇様の気持ちに応えねばのう・・・時政殿が入洛する前に京に入らねば面倒なことになるやも知れぬな・・・影光、久殿をこれへ呼んで来てはくれまいか」
「かしこまってござる」
久は厨にいた。光やみよと夕餉の支度をしていた。影光が入ってきたことに久は感じて義経の傍へ足を運んだ。
「お呼びでございますか?」
作品名:哀恋草 第六章 京入り 作家名:てっしゅう