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ヤモリの子守唄

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 昼間だと言うのに、活気も人気の欠片もない由緒正しい埃の匂いのような沈黙にひんやりと包まれた寮のような造りをしたそのアパートの一階が私の住まいだった。開け放した出入り口から滲む視界が真っ暗になる程の光量とは正反対に地味に灯る白い小さな電燈の下、鍵はなかなか見つからなくて私は会社に置いて来たのではないかと躍起になり焦り始めていた。ようやく手帳に挟まれた恰好になって見つかり、安心して鍵を開けて中に入り後ろ手に扉を閉めようとした時だった。蛙を踏みつぶした時のような小さな水風船でも弾けたかのようなケッっと言う音が不意に真横でしたので、驚いて振り向くと扉の上方に張り付いた小さくて白っぽいヤモリが慌てて天井に逃げる所だった。
 なぁんだ。ヤモリかぁ。虫もトカゲも嫌いではなかった私はそれ以上特に気にもせず、そのまま扉を閉めると昨日出掛けた時のまま開けっ放しになっていたカーテンを引くとお風呂場に向かった。とにかくあまりの眠さに一刻も早く窓辺のベッドに倒れ込みたかったのだ。

 母が男と別れてしばらくして、学校から帰った私がどんよりと泥水を吸い取ったような雑巾を敷き詰めたような空の下、安い如雨露から降り注ぐような大粒の雨音を聞きながら家の窓際に寄り掛かって宿題をしていると、いつもより更に黒緑色に沈み込んで見える玄関の扉を叩く荒い音がした。
 私は祖母かと思って特に躊躇もせずに扉を開けた。祖母は別に怒っているわけではないのだが何故かうちに来ると必ず苛々と乱暴にノックをするのだ。
 しかし、予想に反して立っていたのは別れた男だった。私は一瞬で考えもせずに開けてしまった事を心底後悔した。色褪せた落書きのように灰色の雨が降る日暮れの景色に沈んだ男はもの凄い形相で、その手にはやけに煌めくカッターナイフが握られている。確認もせずに無防備に扉を開けてしまった愚かな私は殺されるのかもしれないと頭に過った。
「お前だろ? あいつに変な事を吹き込んでたのは!」
 別れた事を逆恨みにしているらしく、しかもその矛先を私に向けてきたのだ。お終いかもしれないと恐怖が足下から這い上がってきた細かい無数のウジ虫のようにぞろぞろと一瞬で冷や汗に濡れた背中を這いずり回るのを感じた。
「・・・そんな事 してない」
 なんとか絞り出した声は乾涸びていて到底男の耳に届いたとは思えない程頼りないものだった。私は後ずさりながらなにか応戦出来る物はないかとコントラストが濃くなった部屋の彼方此方を盗み見た。男は遠慮なく踏み込んでくる。
「お前のせいで俺達の仲が悪くなったんだ。お前がいなけりゃ俺達はうまくいってた」
「そんな事ない。だって、ママはいつも無理して笑ってたんだ」
 思わず口を突いて出てしまった言葉をしまったと思った時は遅かった。男は血に餓えた獣のような叫び声を上げながら私に襲いかかってきた。けれど、私は逃げられなかった。母に叩かれる事の多かった私は逃げられないように体に染み込ませてしまっていた。母の怒りに満ちた手で叩かれるのが恐ろしくて、その恐怖のあまり体が竦んで逃げられなくなっていたのだ。私は男のカッターナイフの切っ先をモロに顔に受けた。男の憎しみの力強さに操られたカッターは思いのほかよく切れて、私は痛さと流れ落ちる血に動転してしゃがみ込んだ。男もそれは同じだったらしく私の顔から滴る鮮血を見ると急に怖くなったようで一目散に逃げていった。
 残された私はどうしていいのかわからず、泣きながら切られた顔を押さえていた。すると隣に住む老夫婦が開きっぱなしの扉を不審に思って怖々覗き込むなり慌てて駆け寄ってきた。
「可哀想にこんなになって、一体どうしたんだい?!」
「きっと、この子の母親よ。いつもなんだかおかしい感じだったから」
 警察と消防車に電話をしてからタオルで私の顔を押さえつつ勝手に話している老夫婦の言う事に私は反論すら出来なかった。そんな力等残されていなかったのだ。男は私の顔と一緒に、私が母に対して必死に受け止め続けていた最後の砦も切ってしまったのだと自分の血をぼんやり見つめながら思った。私を囲んで好き勝手に議論する夫婦の声が雨音と混じり合ってやけに耳障りに響く。
 駆けつけてきた警察と消防士が事情を聞くと、今頃必死に熱さと戦って鰻を焼いたりホッケを焼いたりしている母の代わりに老夫婦は自分達が思った事を大袈裟過ぎる程の見ぶり手振りを交えて供述した。
「虐待ですよ!早くこの子を安全な所に匿わないと」
 神妙な顔をして頷く警察官と救急隊員を血で濡れたタオルを通して見つめながら、私は母との別れを予感したがもうどうにもできなかったし、どうでも良くなったのかもしれない。母との綱渡りのような生活に正直疲れたのかもしれない。大人達の様々な声はもう何を言っているのかすら判断が出来ない。ただ、雨音が一段と激しくなっていく。気が狂いそうなくらいに頭に鳴り響く。私は自分の手の平にこびり付いて乾いている自分の血をただ見つめた。雨の音が私を取り巻く騒音達と相俟って音量を増していく。うるさいよ・・・放っといて。もう聞きたくない。


 止めどなく並々と満たされていた眠気がお風呂から出ると同時に蒸発してしまった私はとりあえず疲れた体をベッドに横たえていた。こうしておけばそのうち眠れるだろう。そして遮光カーテンで遮られた薄暗い木目の天井を眺めながら、左目の下から伸びる一筋の傷跡をなぞるように私は軽く触れた。もう触っても凹凸もなく、ただ埋め込まれたような線がわかるだけの古傷なのだけど折に触れてその存在を認識する度に、切られた直後のような痛みを感じる気がするのだ。
 あの事件の後、私は山奥の施設に入れられて母とは離ればなれで暮らす事になった。独りぼっちになった母は酷い精神病になってしまい、とうとう入院してしまったのを後で聞かされた。
 最後に面会した時の母は私の頰に張られたガーゼの上を泣きながら何度も撫でてごめんねごめんねと悲痛に満ちた声で繰り返していた。私はそれを抜け殻のようになってただぼんやり見つめるだけで不思議と言葉も涙もなにも出なかった。
 この傷がついてからそう言えば私はもう殆ど泣かなくなってしまった気がする。涙が流れた痕のようなこの傷があるからか。それとも泣く事すらも出来なくなってしまったのかは定かではないが、私は喜怒哀楽を感じる事がなくなった。いちいちの感情を表に出す事すらわからなくなってしまったのかもしれない。
 母はと言うと、元々そんなに物事を深く考えるような性格ではなかったのも手伝ってもう大丈夫だと言われて退院したが、何度となく私のいる施設に無断侵入して来ていたので摑まってはまた病院に逆戻りしたりしていた。
「どうして自分の娘と一緒に暮らしちゃいけないの?」
「どうして暮らしたらいけないのがわかっていないからですよ」
「私は正常よ。だから娘を返してよ!」
「まだダメですよ」
 そう言われて何度となく落胆した母だったが、めげずにまた私のところに来るのだ。けれど、施設に預けられた事は私にとってもとても良かったのだと思う。
作品名:ヤモリの子守唄 作家名:ぬゑ