ヤモリの子守唄
母は男運のない女だった。離婚した父にしても飲んだくれでろくに働きもしないような男だったのだ。母子になってしばらくしてから付き合い出した年上の男も最初の頃こそ優しかったものの、50近い歳をしてろくでもない代物だった。そいつはよく亭主関白を気取りたがったので、誰にでも無意識に気を使ってしまう母はそれに付き合う感じになって私にも偽装の家族団欒らしきものを強制した。私は別人にすら見えてしまいそうな母の為にそのくだらない茶番に仕方なく付き合った。
どうして曲がった事が極端に嫌いで短気な母が2年もあんなつまらない男と付き合っていたのかはわからない。まだ年端も行かない娘の私には到底知り得る事のない大人の母なりのなにか満たされるものがあったのかもしれない。
「俺の事をパパって呼んでもいいんだぞ」
酔っぱらったそいつは気持ち悪い猫なで声を精一杯張り上げてよく言った。
「呼びたくない」
私がハッキリとそう言うと、男は怒り狂い私の胸ぐらを掴んで酒臭い息を吐きかけながら脅した。
「クソガキ、調子に乗ってんじゃねーぞ!」
「調子に乗ってんのはあんただよ」
負けずに言い返すと増々男はがなり立て始め、その騒ぎを聞きつけた母が台所から飛んできた。ちょうど男が我が家に侵入してきてから1年半くらい経った秋口だったと思う。小さな借家の平屋建ての狭い台所にはグリルでさんまを焼く芳ばしい匂いが漂っていたから。母はすぐに男の手から私を奪い取った。
「この子に手を出すなら、出て行って!」
てっきり私が怒られるもんだと思っていた私はその母の言葉に一遍に安心した。ところが男は矛先を今度は母に向けて酷い言葉を浴びせかける。この男の為にどれだけ母が我慢しているのかも知らないくせに。私の手を強く握る母の手がじっとりと汗ばんでくるのを感じた。母が緊張しているのがわかる。
「ああ、もういい!うんざりだから、出てって!出てってー!」
叫ぶように怒鳴ると母は顳顬に青筋を立てて、倒れそうな程真っ青になりながらそれでも踏ん張って男を睨み据えていた。その気違いになったと勘違いされてもおかしくない気迫に負けたのか、男は急に腰が低くなって母の機嫌を取り始めた。
「なぁ、そんな怒んなよ。小さな出来心だろ? な、お前も俺がいなけりゃ寂しいだろ? な? 仲良くやろうや」
母の手の平が急激に乾いていく。手の平に集まった汗が今度は体中を巡っているのだ。私を叩いた後の状態と同じ・・・私は黙って頷く母の手を振りほどいた。
その夜、母は暗くした部屋で湿気った匂いのする布団に一緒に寝っ転がりながら、私のお腹を優しくぽんぽんと叩いてとても小さな声でごめんねごめんねと何度も謝った。あまりに毎晩そんな風に言うので、もしかしたら母はごめんねと言うのが子守唄だとでも思っているのではないのかといぶかしんだ事すらある。
「おい。いいから放っとけば寝るだろがっ!」
隣の襖を隔てて男がテレビの音の合間にひっきりなしに母に呼びかけている。
「・・・ママ、いいよ。 大丈夫。一人で寝れるから」
私がそう言うまで、母は方肘をついて黙って私の傍に添い寝してくれる。まるで私がそう言うのをじっと待ってでもいるかのようにも感じてしまい、私はふと母を引き止めているのは私なのだとなんだか申し訳ない気持ちになる。
「・・・そっか」
母は悲しそうな顔をして波に翻弄されるイソギンチャクのようにゆっくりと起き上がると、ナメクジのようにのろのろと騒がしい襖の前に歩いていき襖に手をかけた。私はいつもそこで、母がもう一度戻って来て隣に寝っ転がってくれないかと淡い希望を抱くが、それは一度も叶った事はなかった。母はおやすみと呟くように言うと、隣の部屋から洩れる電気の灯りに吸い込まれるようにして消える。
残された私は目を瞑り、その場に満ちる音に耳を澄ます。テレビと男の下品な笑い声の騒音、窓の外から聞こえる虫の声、遠くを走る車の音、近所の家で飼っている犬の声。それに男に付き合う母の表情のないぽっかりと浮いた笑い声。それは例えるなら真っ黒いコーヒーに垂らした一滴のコーヒーフレッシュのように、周りから完全に浮いているのに素早く溶け込んでその成分を隠してしまう。
私は自分の耳で受信するその母のコーヒーフレッシュの笑い声のボリュームを他のどの音よりも上げる。大丈夫。この面白くなさそうな機械的な笑いが聞こえている限り、母は私を置いていってしまう事はないのだ。母がこの笑い声を出す相手は限られている。私以外の母の身近な人間全てに対して母はまるで鳴き声のような笑いを立てる。それはよく聞けばわかるのだが、無理をした笑い声だった。母は心底楽しくて笑っているのだはないのだ。
ただ、相手に付き合って機械的に笑っている。
母は私の前では頻繁に涙までちょちょ切らせて大笑いをしたし、あまり接点も関係もないような無責任な相手の前では爆笑したりする。もちろん男と知り合ってすぐの頃の母も普通に笑っていた。けれど、男の性格や本性に馴染んで行くに連れて徐々に笑いは乾き、音量だけが無駄に大きくなっていったのだ。
私は男と一緒にいる母が大笑いをしているのを見るのが大嫌いだったし不安で仕方なかったが、いつからか聞こえてくるようになった母のテンションが下がった笑いを聞く度にそんな心配はいらなくなり、むしろそれが聞こえているうちは安心出来たのだ。どちらにしても娘の私では母の心を完全に満たす事は不可能だろうし、母が女としての安らぎを求めるのなら見ず知らずの男がやっぱり必要なのはわかっていたが、それでも母を取られてしまうと言う不安と、邪魔にされて捨てられるかもしれないという恐怖は足下から伸びる影のように常に纏わり付いていた。
特に眠る事は自分の水面下で封印している恐怖の意識が剥き出しのまま夢になって現れるので本当に怖かった。母は常に一緒についていてはくれない。
隣の部屋から空気を振動して聞こえてくる母のはっきりとした笑い声はいつしか私の安眠剤にも緩和剤にもなっていた。変わった種類の子守唄という事になるのかもしれない。
私は昭和の香り漂う小じんまりとしたくたびれた商店街の通りから横に入ると、見逃してしまうくらいの小さな扉が開け放してある建物の中に踏み込み、奥の階段に向かって伸びる薄暗い廊下に並んだ1つの焦げ茶色に塗られた合板扉の前で立ち止まって鞄から鍵を探した。その扉には控え目な具合に107と書かれた小さな白いプラスチックプレートが真ん中から少し上寄りにくっついていた。