ヤモリの子守唄
河馬の欠伸のような音がしたかと思うと、居眠りしていた頭がガクンと落ちて乗っている電車が駅に停まった。私は口元を拭いながら辺りを見回した。どうも電車の中での居眠り程、現実と夢の区別がつきにくい代物はないのだ。車内は瞼が被い被さる前に無意識に眼球に映っていた人々が変わらず立ったり座ったりしていて、その面子も人数も殆ど変化していなかった。田端にある家まではまだ遠い。
扉が閉まり、電車が動き出すと私は再び瞼を閉じた。音だけの車内は動物園宛らに様々な音がする。莢雲が何本か浮遊する新橋色の空が嵌った窓ガラスの外を一瞬で飛び千切る群れは様々な音色を孕む。
蝉達の気違い滲みた合唱。アフリカ像の戦慄き。海豚の笑い声。ヌーの逃げ惑う足音。野生馬の疾走。時々入り交じる水鳥の叫び。雷の轟。そして扉開閉時のサイレンの2種類の旋律。それらを繰り返しながら、思いがたっぷり詰まった水風船みたいな人間達を無数に乗せた電車は午前中の勢いある太陽の光が照らす町中を銀色に輝くレールの上を滑らかになぞり、何処かに向かってひた走っていく。
車窓から差し込む光と影の縞模様が薄汚れた床を所狭しとコンパスのように絶えず回転をしながら踊り狂い、目紛しく明度を変化させては逃げていく。
徹夜上がりで疲れ切った私がそんな穏やかとも言える在り来たりな車内でどうして母の事を思い出したのかはわからない。ただ、車内に組まれたり鞄を支えたりつり革を掴んだりしているたくさんの千差万別の手をぼんやり見るともなく見ていて、ふと母の滲みだらけの決して綺麗とは言い難い手をありありと思い出したのだ。撫でたりお尻を叩いたりしていたその手はいつも少し湿っていて、間接にうっすらとした産毛が生え、滲みだらけの甲には青く太い血管がくっきりと浮き出ていた。
顔立ちの綺麗だった母は父と離婚した後、知り合いに紹介された夜の仕事をしていたのだが、それによってしょっちゅう私が熱を出すようになってしまったので昼間パートとして和食レストランで厨房の仕事を始めたのだ。
母の担当は魚を焼いたりカツ丼を作ったり、ひつまぶしを盛ったりする焼き場だった。それを慣れてくると母一人で任された。もちろん休日のランチタイムともなればてんてこ舞いだ。鰻を焦がして怒られる事もしょっちゅうあったとよく母はおもしろ気に話していたが、安い時給で毎月食べていくのもやっとの状態だった。
時々、ふと思いついたように母は前触れもなく恐ろしく落胆すると、よく炭に焼かれて滲みの出来たボロボロの手を擦りながら寂し気に言ったのだ。
「ごめんね。こんななにも出来ないママと一緒にいない方がいいのかもしれない」
そう言ってはすすり泣くようにがっくりと肩を落として部屋の隅っこに蹲まり、まるで小さな子どもみたいに子どもの私がご飯を食べている前で僅かに涙をこぼした。私は毎回そんな母の姿を見て、子ども心に咽に食べ物がつっかえたように変に息苦しくなったのを覚えている。私がしっかりして可哀相な母を守ってあげなければと、ぼんやりと口の中のご飯を何度も何度も噛み締めながら思っていた。
祖母が近くにいたにも関わらず、母はいつも独りぼっちだったのだ。
正確には母の心は常に孤独だったのだ。孤独とは自らで張り巡らす場合と環境が生み出す場合とがあるが、母のそれはどちらも兼ね備えているように感じた。
母子家庭の女姉妹の一番上に産まれた彼女は小さな頃から姉である責任を一心に感じ続けて育った。祖母もそれが当たり前だと思い、彼女を名前で呼んだ事はあまりなかった。いつも姉ちゃんと呼んだのだ。それほど器用でも頭が良い訳でもない彼女は要領の悪い思いをしながらも必死に妹達の面倒をみたが、持ち前のふざけ癖も手伝って祖母に怒鳴られる事も度々あった。それでも、祖母を気遣う事が自分の使命だとでも自負していたのか彼女は彼女なりによく頑張ったと思う。
しかしいつの頃からか、彼女は徐々に泣き虫の扱いづらい子どもになって高校生になる頃には、ほとんど家に帰らない事もしばしばあった。帰っても家族と食卓を囲む事は疎か口をきく事すらも稀になった。そしてリストカットなんかの簡易的な自殺行為を繰り返した。所謂思春期の難しい年頃になったのだ。その頃の祖母は妹達の進学も重なり、とても手が回らず彼女の事は半分以上諦めており、その現状を眺める事で精一杯だった。ところが、彼女は高校卒業間近になって急にアルバイトを始め、ある程度のお金が溜ると高校卒業と同時に祖母に奨学金だと言ってそれを渡し、家を出て一人暮らしを始めたのだ。
祖母は彼女が家を出るまでも出た後も彼女の考えについて理解する事は出来なかった。口数の少なくなった彼女は祖母に自分の多くを語ろうとはしなかったからだ。けれど、彼女のそんな体質は元から持ち合わせていた繊細な性格も手伝って、やはり育ってきた環境で培ってきたものだろうと思う。何故なら、彼女は何も考えていないように見えて芯では先の事まで見通して考えていたし、特に特別珍しくもなく起伏の激しい性格で不器用で甘ったれなだけの何処か憎めない人間だった。それだから私はいくら母に辛く当られても、叩かれても母の事を嫌いになれなかったのだと思う。母は奥底ではひどく周りの人々を気にして自分を犠牲にしてまでも思い遣っていた。だからこそ一番近い場所にいて母を見ていた私には一番心を許していただろうし、だからこそ一番色んな思いを当られたのかもしれない。
人はそれを虐待だと言う。確かに私は母に手を上げられるのが怖かったし、それは色んな形の傷になって私の奥深くに刻まれていったのだろうが、私は自分が受けるダメージよりも私に暴行をする事で我に返った母が更に追い込まれて自分への苦しみを増しては自己破滅していく姿の方が何倍も悲しかった。
「ママは もう死んだ方が いい・・・」
電車が大きく傾いでようやく田端駅に滑り込んで停まった。私がこの土地に馴染んでいないからだろうか、ホームに降り立った時にいつもなにかの違和感を覚える。それは最近改築され一体型になった屋根から降り注ぐ埃のような光の粒子が作りだす不可思議な図形のせいでも、連休を迎えて浮き足立って何処かに出掛ける為に並ぶ人ごみの賑わいのせい等でも決してないのだが、何処となく居心地悪さを感じるのだ。私の居場所はここにはないのだと。では何処に行けばあるのかと問われてもそれすらもわからない。結局、なんだかよくわからない現実とのズレ。まるで、敷き詰めて行くタイルの端っこが変に不格好な形で余ってしまってどうしようもない隙間が出来てしまっているような。そんななにか。
蝉の声に包まれる改札を出て、無数のカメラのフラッシュのような反射が目を射る夏の光の下に蛇行した人気もまばらな白光りする坂道を額に吹き出る汗を感じてふらふらと登りながら、私は突然蘇ってきた母と過ごした色褪せた記憶を思った。
扉が閉まり、電車が動き出すと私は再び瞼を閉じた。音だけの車内は動物園宛らに様々な音がする。莢雲が何本か浮遊する新橋色の空が嵌った窓ガラスの外を一瞬で飛び千切る群れは様々な音色を孕む。
蝉達の気違い滲みた合唱。アフリカ像の戦慄き。海豚の笑い声。ヌーの逃げ惑う足音。野生馬の疾走。時々入り交じる水鳥の叫び。雷の轟。そして扉開閉時のサイレンの2種類の旋律。それらを繰り返しながら、思いがたっぷり詰まった水風船みたいな人間達を無数に乗せた電車は午前中の勢いある太陽の光が照らす町中を銀色に輝くレールの上を滑らかになぞり、何処かに向かってひた走っていく。
車窓から差し込む光と影の縞模様が薄汚れた床を所狭しとコンパスのように絶えず回転をしながら踊り狂い、目紛しく明度を変化させては逃げていく。
徹夜上がりで疲れ切った私がそんな穏やかとも言える在り来たりな車内でどうして母の事を思い出したのかはわからない。ただ、車内に組まれたり鞄を支えたりつり革を掴んだりしているたくさんの千差万別の手をぼんやり見るともなく見ていて、ふと母の滲みだらけの決して綺麗とは言い難い手をありありと思い出したのだ。撫でたりお尻を叩いたりしていたその手はいつも少し湿っていて、間接にうっすらとした産毛が生え、滲みだらけの甲には青く太い血管がくっきりと浮き出ていた。
顔立ちの綺麗だった母は父と離婚した後、知り合いに紹介された夜の仕事をしていたのだが、それによってしょっちゅう私が熱を出すようになってしまったので昼間パートとして和食レストランで厨房の仕事を始めたのだ。
母の担当は魚を焼いたりカツ丼を作ったり、ひつまぶしを盛ったりする焼き場だった。それを慣れてくると母一人で任された。もちろん休日のランチタイムともなればてんてこ舞いだ。鰻を焦がして怒られる事もしょっちゅうあったとよく母はおもしろ気に話していたが、安い時給で毎月食べていくのもやっとの状態だった。
時々、ふと思いついたように母は前触れもなく恐ろしく落胆すると、よく炭に焼かれて滲みの出来たボロボロの手を擦りながら寂し気に言ったのだ。
「ごめんね。こんななにも出来ないママと一緒にいない方がいいのかもしれない」
そう言ってはすすり泣くようにがっくりと肩を落として部屋の隅っこに蹲まり、まるで小さな子どもみたいに子どもの私がご飯を食べている前で僅かに涙をこぼした。私は毎回そんな母の姿を見て、子ども心に咽に食べ物がつっかえたように変に息苦しくなったのを覚えている。私がしっかりして可哀相な母を守ってあげなければと、ぼんやりと口の中のご飯を何度も何度も噛み締めながら思っていた。
祖母が近くにいたにも関わらず、母はいつも独りぼっちだったのだ。
正確には母の心は常に孤独だったのだ。孤独とは自らで張り巡らす場合と環境が生み出す場合とがあるが、母のそれはどちらも兼ね備えているように感じた。
母子家庭の女姉妹の一番上に産まれた彼女は小さな頃から姉である責任を一心に感じ続けて育った。祖母もそれが当たり前だと思い、彼女を名前で呼んだ事はあまりなかった。いつも姉ちゃんと呼んだのだ。それほど器用でも頭が良い訳でもない彼女は要領の悪い思いをしながらも必死に妹達の面倒をみたが、持ち前のふざけ癖も手伝って祖母に怒鳴られる事も度々あった。それでも、祖母を気遣う事が自分の使命だとでも自負していたのか彼女は彼女なりによく頑張ったと思う。
しかしいつの頃からか、彼女は徐々に泣き虫の扱いづらい子どもになって高校生になる頃には、ほとんど家に帰らない事もしばしばあった。帰っても家族と食卓を囲む事は疎か口をきく事すらも稀になった。そしてリストカットなんかの簡易的な自殺行為を繰り返した。所謂思春期の難しい年頃になったのだ。その頃の祖母は妹達の進学も重なり、とても手が回らず彼女の事は半分以上諦めており、その現状を眺める事で精一杯だった。ところが、彼女は高校卒業間近になって急にアルバイトを始め、ある程度のお金が溜ると高校卒業と同時に祖母に奨学金だと言ってそれを渡し、家を出て一人暮らしを始めたのだ。
祖母は彼女が家を出るまでも出た後も彼女の考えについて理解する事は出来なかった。口数の少なくなった彼女は祖母に自分の多くを語ろうとはしなかったからだ。けれど、彼女のそんな体質は元から持ち合わせていた繊細な性格も手伝って、やはり育ってきた環境で培ってきたものだろうと思う。何故なら、彼女は何も考えていないように見えて芯では先の事まで見通して考えていたし、特に特別珍しくもなく起伏の激しい性格で不器用で甘ったれなだけの何処か憎めない人間だった。それだから私はいくら母に辛く当られても、叩かれても母の事を嫌いになれなかったのだと思う。母は奥底ではひどく周りの人々を気にして自分を犠牲にしてまでも思い遣っていた。だからこそ一番近い場所にいて母を見ていた私には一番心を許していただろうし、だからこそ一番色んな思いを当られたのかもしれない。
人はそれを虐待だと言う。確かに私は母に手を上げられるのが怖かったし、それは色んな形の傷になって私の奥深くに刻まれていったのだろうが、私は自分が受けるダメージよりも私に暴行をする事で我に返った母が更に追い込まれて自分への苦しみを増しては自己破滅していく姿の方が何倍も悲しかった。
「ママは もう死んだ方が いい・・・」
電車が大きく傾いでようやく田端駅に滑り込んで停まった。私がこの土地に馴染んでいないからだろうか、ホームに降り立った時にいつもなにかの違和感を覚える。それは最近改築され一体型になった屋根から降り注ぐ埃のような光の粒子が作りだす不可思議な図形のせいでも、連休を迎えて浮き足立って何処かに出掛ける為に並ぶ人ごみの賑わいのせい等でも決してないのだが、何処となく居心地悪さを感じるのだ。私の居場所はここにはないのだと。では何処に行けばあるのかと問われてもそれすらもわからない。結局、なんだかよくわからない現実とのズレ。まるで、敷き詰めて行くタイルの端っこが変に不格好な形で余ってしまってどうしようもない隙間が出来てしまっているような。そんななにか。
蝉の声に包まれる改札を出て、無数のカメラのフラッシュのような反射が目を射る夏の光の下に蛇行した人気もまばらな白光りする坂道を額に吹き出る汗を感じてふらふらと登りながら、私は突然蘇ってきた母と過ごした色褪せた記憶を思った。