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ゆく河の舟で三三九度(第二話)

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 房子が居間を立った。台所のほうへ立ったので、健二はお茶をいれるのだろう、と思っていた。戸棚を開く音が聞こえていたと思うと、水道から水を溜める音に変わった。しかし、勝手口の扉が開く音が聞こえ、やがて房子は縁側のほうに回ってきた。
 一体何をしているのかと健二が縁側から庭をのぞくと、房子は幼稚園のフェンス寄りの一角にじょうろで水をやっていた。
 ごみで埋まっていた庭だ。植木なんて何も残っていないと思っていたのに。
 光を受けて、じょうろからの水は光の雨のように見える。健二はじょうろを傾ける房子の細い肘を見ていた。腕まくりをしているので、グレーのカーディガンの下に着ていた白いブラウスが表に出ている。房子がゆらゆら揺れると、房子の足下にオレンジのポピーが茎を伸ばしているのがちらちら見えた。
 健二は微笑みながら立ち上がった。台所に行き、焦げだらけのやかんに水を入れる。火をつけて手持ちぶさたになった健二は、居間の奥にあるタンスの一番上段の小さな引き出しを見ていた。様々な感情が胸を行ったり来たりしたが、引き出しのほうに近づくことはしなかった。そのままぼんやりしていると、勝手口から房子が戻ってきた。子供のような顔で「ただいま」と言う。

 *

「明日はどこに行きましょうか」
 夕飯のときに、健二は口を開いた。
「どこって?」
 房子はきょとんとしている。
「せっかく結婚したんだし、デートしましょうよ。私たちはもう仕事もないし、家にずっと籠もりっきりじゃつまらないでしょう」
 房子はまだちょっと戸惑っていた。それを隠すために、大根の煮物に箸を伸ばす。健二は少しトーンダウンして、今度は優しい口調で言った。
「どこか行きたい場所はないですか? 今まで行きたいと思っていたけれど行けなかったところとか」
 房子は少しううん、とうなって考えていた。健二がその間に何か言わないか、と待っていたが、健二がにこにこ笑ったまま、箸も動かさない様子なので、房子は恥ずかしそうに首を傾げながら言った。
「子供みたいな場所でもいい?」
「いいですよ、行きましょう」
「私ね、パンダを見てみたいの」

 *

 上野動物園にパンダがやってきたのは1972年、カンカンとランランが初めだった。中国で「幻の動物」として国宝扱いされているパンダを、日中国交正常化の記念として中国が日本にプレゼントしたのだ。カンカンとランランを一目見たさに撤夜で並ぶ者が出たり、連日800人以上の列ができたりと当時はパンダが大ブームになった。当時、パンダを見ることは大人気のアトラクションに乗るのと同じくらい大変なことだった。
 健二が空を見上げると、青い空に電線が縦に伸び、その遙か上を雲が流れていた。行楽日和だった。
「まるで生まれ変わったみたい」
 独り言ぐらいの小さな声で房子は言った。
「昨日の夜、眠るまでの間、私ずっと考えてたんですよ」
 房子は密かにはしゃいでいるようで、昨日よりも歩く速度がこころなし速い。
「誰かに新しく出会うことは、生まれ変わることのようなんですね」
 山手線に乗る。たたん、たたん、と鼓動のような穏やかなリズムが二人を動物園へと連れて行く。房子は少しだけ眼を閉じた。
 扉の側につけたベビーカーの上で赤ん坊がガラガラを振っている。カラリン、カラリン。鈴の音が房子の夢の中に降ってきた。

 *
 
 手を伸ばして布のボールを、床に座った赤子が受け取る。子供がボールを振ると、カラリン、カラリンと音がした。
「この子がもう少し大きくなったら、動物園にも連れて行きたいですね。ほら、このまえ上野動物園にパンダがやってきたでしょう」
「…馬鹿馬鹿しい。パンダなど中国の動物だろ。そんなものを見るために三時間も四時間も待つのか」
 房子は黙った。黙って、そのまま黙っていようかとも考えた。結婚して4年、房子が身に付けた知恵だった。しかし、そのときは言葉が口をついて出た。
「…もう、そうやって『どこの国のものだから』ってなんでもかんでも否定する時代は終わったのよ」
「口答えするな!」
 房子は眼を固く閉じた。頬を打つ鋭い音がした。歯を食いしばったが、口の中にはみるまに血の味が広がっていた。
「房子さん、降りますよ。上野です」
 まぶたの裏の闇のなか、誰かが肩を揺すっている。

 *

「上野に着きましたよ。さあ、降りましょう」
 房子が目を開くと、そこには光が溢れて滲んでいた。笑顔の親子や若い恋人たちがあれこれしゃべりながら扉のほうへ流れていく。

 *

「いやあ、くたびれましたね」
 やっとみつけた空いたベンチは、すぐ裏で遊具の塗装補修をやっていてシンナー臭かったが、健二は気にせずベンチの背にもたれかかった。買ってきた桜木亭のパンダ焼を口にひとつ運ぶ。
 赤い背景にパンダのイラストが印刷されたパッケージは、おそらく70年代のパンダブームのときから変わらないデザインなのだろう。笑いかける人形焼きのパンダはへその部分に桜の花、背中に「桜木亭」の刻印がされている。房子は人形焼きをひっくり返したりしながら神妙な顔で見ていた。
「これ、雑誌で見てたわ。ずいぶん昔だったけど」
「それじゃあよかったですね。憧れに一つ手が届いたんですな」
 健二の口調は、その功績のすべてが自分が関わったおかげだ、とでも言いたげだった。そのときパンダ舎の中で見た、ベビーカーを引いていた親子が目の前を通り過ぎた。パンダ焼の機械の前で立ち止まっている。ベビーカーの子供を父親が抱き上げて、子供にパンダ焼がジェットコースターのようなレールに乗った鋳型からコロコロできあがっていくさまを見せている。房子はちょっと健二に意地悪したくなった。
「でもね、私たちは今こんな歳になってから初めて食べてるじゃないですか。そうじゃなくてね、私たちももう何十年も連れ添った夫婦で、これももう何度も食べているのだったら、また違ったと思うのよ。『房子さん、時代が変わってもこうして同じものが食べられるのは嬉しいですな』って昔を懐かしみながら食べられたら、もっと良かったって思うのよ」
 健二はちょっと困った顔をするだろうか。そう思いながら房子が横を見ると、健二はけろっとした様子だった。そして、表情を変えずにこう言った。
「それなら、そういうことにしちゃいましょうよ。私たちは、もう何十年も連れ添った夫婦で、今日は上野動物園に久しぶりにやってきた。子育ても仕事も一段落して、後は二人きりの静かな生活を送るのみ。変わらないパンダ焼の味に、昔を懐かしんでいるのだ」
 最後のほうは、まるで小説の一節を朗読しているように健二はしゃべった。今度は健二が房子をしたり顔で見る番だった。
 房子は、あまりに驚いて一瞬言葉を失った。そして、想像もしなかったこの答えに、笑いが込み上げてきた。
「そうね、そう考えてしまえばいいわね」
 大きな声で笑っているうちに、腹の底のほうが暖かくなってきた。そうか、そんなことでよかったのだ。笑っているうちに、もつれた糸がほぐれていくのを感じた。こんな簡単なことだったんだ。何を何十年も悩んでいたのだろう。
 このときの健二は、ほんの言葉のあやで言ったにすぎなかった。また、房子もそれでいいと感じていた。