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ゆく河の舟で三三九度(第二話)

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でもよく考えてみればわかる。真のヒーローは一体どんな顔をしているか。何度邪魔をされたって諦めずに立ち上がって、自分の夢を追い続けて、信じた道をまっすぐ歩む。こんな強い心を持ってるのはヒーローのほうじゃない。ヒーローにやっつけられる悪役のほうだ。
 だから私は辛くなったら、あいつらの顔を思い出す。あいつらがこてんぱんにのされて、それでも次の週になったら先週と同じ戯れ言を口にするさまを。どんなに「特別な力」なんてなくても、明日また起き上がっていいんだって思うために。
 おやつ 冷凍みかん、マシュマロ、パイの実、まるごとバナナ
 いいこと 戸越せんせいよりおみやげ・フルーツ大福×2個もらう

4月7日

 今日は幼稚園の入園式だった。うちの幼稚園は、入園式でもお祭りみたいににぎやかにはならない。それでも人がいなくなると、いつもよりからっぽになった。園庭の桜はもう少しで満開だ。
 隣のゴミ屋敷のゴミ撤去はどうやら昨日が最終日だったらしい。昨日までは業者がゴミ屋敷を出入りして、消毒らしいスプレーをしていた。そのとき既に、庭に積まれて幼稚園のほうまで悪臭を漂わせていたゴミ袋やその間に挟まったガラクタは運び出されていたみたいで、一つも残っていなかった。昨日、入園式の準備で出勤したら、こうなっていた。春休みの間にここの住人に何があったのだろう。
 しばらくすると、ゴミ屋敷から掃除機をかける音が聞こえてきた。あの住人が掃除機をかけるなんて信じられない。…もしかして、亡くなったとか? 私がそんなことまで思い始めたとき、掃除機の音が止んで中から住人が出てきて慌てた。
 横目でチラ見した限りでは、いつもフェンス越しにゾンビみたいな顔で幼稚園のほうを見ていたあの人物のようだった。ただ、無精ひげは剃られ、染みだらけだったズボンとシャツは新しい物になり、そしてなにより眼が、生きた人の眼になっていて、まるで別人のようだった。
 春はきらいだ。なにもかも別の新しいものに生まれ変わってしまう。
 職員室に戻っても、胸の中を煙が巻いていた。この気持ちを言ってもこいつどうしたんだろ、って顔されるだけだろうしな。そう思いながら昨日もらった大福を食べたけど甘いだけだった。苺のほうが定番だけどおいしい気がする。

 おやつ ポテチ、雪見だいふく、ブランデーケーキ、ヨーグルトムース
 いいこと コスメデコルテの限定キットのDMが届く

4月8日

 入園式から一日。隣のクラスで、新しい園児たちのなかに泣いたりぐずったりする子もなく、平和な一日だった。
 春になって一番良かったのは、園庭に出てもあの家から悪臭が漂ってこなくなったことだ。もう倉庫に行くたびに「これからこの臭いもっと酷くなるんだよな」と身構えなくていい。
 確か10時過ぎぐらいだったと思う。ゴミ屋敷の引き戸がぴしゃんと鳴って、中からあの住人が出てきた。幼稚園の裏の道路を背筋を伸ばして通っていく。格好は、薄手の明るい茶系のセーターにクリーニングから出してきたばかりと思われるグレーのスラックス。まだ朝晩は寒くなるだろうに、ジャケットは羽織っていなかった。
 私は胸騒ぎがした。「これから何かが起きるんじゃないか」って。この幼稚園に勤めてもう4年経つけど、その前からずっと、あのゴミ屋敷はゴミ屋敷だった。それがなんだ。冬から春になる間に、こんなに一変してしまう、なんてことあるのか?
 だから私は、これからこの隣人のことを日記に書き留めていくことにする。事細かなところまで。
 私は、目撃者になるのかもしれない。

4月9日

 またあの隣人は外に出ていった。昨日と同じ、10時くらい。今日は紫のニットのベストに生成のシャツ、茶系のチェックのスラックス。こんなおしゃれな洋服、どこに持っていたのだろう。私は今までこの隣人のアンダーシャツ姿や年中同じ色のトレーナーばっかり見させられた。
 お昼になって、今日は初めてのお弁当の日。うちは年長組だからみんないつもと変わらない様子だったけど、隣からははしゃいだ声がずっと聞こえてきた。
 午後になってお昼寝の時間に入った頃、事件は起こった。14時40分頃。外でスーツケースをガラガラ引く音が聞こえてきて、隣人の家の前で止まった。私がトイレに行く振りをして廊下に出ると、園庭の向こうから引き戸をがらがらと開ける音が聞こえてきた。なんとなく騒がしい。私は廊下のサッシを開けて耳をすました。「どうぞどうぞ」と人を案内する隣人の声が聞こえてくる。それに続いて「おじゃまします」という声。…女の人? 年齢は高そうだ。空気を入れ換えるためか、次々と家中の戸を開けているようだ。私はサンダルを突っかけて、園庭へ出た。すぐ向かいにあるあのゴミ屋敷が目の前に見えた。誰かが縁側に立って、園庭に生えている満開の桜を見上げている。私は桜の枝に見え隠れする、その奥の人物の顔を見ようとした。風が吹いて、枝が大きく揺れた。縁側に立っていたのは、60代位の品の良さそうな初老の婦人だった。

 *

「では、房子さん。明日、11時に迎えに来ますから」
 夕焼けの紫を桜が吸い込むと、夜はすぐそこだった。二人が駅に着くと駅名の看板はすでに点灯していた。その明かりの届かないところでは闇が服や表情の彩りを蝕もうと鎌首をもたげている。
「そして、荷物をまとめ終えたらランチをとりましょう。おいしいところ知ってるんです」
 房子は黙ってそう言う健二の顔を見つめていたが、やがて、はい、と顔を崩して言った。

 *

「どうぞどうぞ」
 健二は引き戸を引くと、房子を先に入れさせた。「おじゃまします」と房子は玄関に入った。玄関の床は黒と白の丸タイルが貼られていて、入ると少しひんやりする。
 健二は家に上がると、家中の窓を開けていった。
「最近までとても汚かったものですから、匂いがちょっと残っててね」
 健二の姿が見えなくなったので、房子も健二を手伝うことにした。水場周りの健二とは逆方面、縁側の戸を開けていく。ねじ式の鍵をくるくる回して戸を引くと、タン、と威勢のいい音がした。外からは桜の花びらが流れてくる。房子が縁側のほうに出ると、フェンスの向こうに大きな桜の木が生えているのが見えた。そして、その更に奥に、動きやすそうなジャージの上にエプロンをつけたぽっちゃり体型の女性が見え隠れしていた。驚いた顔をしてこちらをみている。
「お隣りはなんですか? 公園?」
「いえ、幼稚園ですよ。ちょっと小さめなんですけどね」
「こっちを見てる人がいますよ、ほら」
 健二はそう言われて、ちらっと縁側から外を見た。
「ああ、『鏡餅さん』か」
 健二はすぐに首を引っ込めると、湿らせた台拭きを畳んで居間のテーブルを拭き始めた。
「ちょっと体型が鏡餅みたいでしょ。それで、肌がもちっとしてて。心配ありません。真面目な、幼稚園の先生ですよ。あの幼稚園では一番先輩株なんじゃないかなぁ」
「なんでこっちを見てるのかしら?」
「なんでしょうねぇ。なんだか春の始業からすごい形相で私も見られているんですよ」

 *