日出づる国 続編
大和
蘇我馬子にとって、大和王権になびこうとしない東国の蝦夷の存在は目障りである。また、東国には良質な鉄を産出する鉱山が多くあり、朝鮮・中国に対する富国強兵のために、それらを手中に収める必要があった。
およそ百年前、ヤマトタケルが蝦夷征伐の名のもとに東征したのは、鉄資源とその技術集団の確保が目的であった。相武(相模)、走水海(浦賀水道)、足柄、多賀、最北端は日高見となる。
しかし今再び、それらは蝦夷の手中に戻りつつある。
武蔵、上総は対蝦夷の最北端基地となっていたが、その北方の上毛野は、榛名山と赤城山の間を利根川がゆるやかに流れ土地が豊かで、早くから伊勢地方から多くの移民が入り、二毛作が行われていた。先進的な灌漑と農業技術を持っていたのだ。
今では上毛野が、対蝦夷の最前線基地である。
上毛野君田道は陸路から、阿部比羅夫が水軍180隻を率いて水路から、蝦夷討伐を命じられた。
春まだ浅い頃、摂政厩戸皇子は摂津国四天王寺で戦勝祈願を行った。
その時暗雲が、寺の上部を覆い、東に向かって移動していったのは誰も知らない。