日出づる国 続編
日出づる国
645年の乙巳のクーデターにより、中大兄皇子と藤原不比等が蘇我入鹿を倒し、蘇我氏を最高権力者とした大和王朝は、天皇中心の政治へと変わった。
7世紀末、国号を『日本(日ノ本)』とし、701年に日の丸の原型である【赤地に金の日輪】の旗を掲げた。
東国のまつろわぬ民、屈強の蝦夷を直接征伐するよりも、稲作を広めることに力を注ぎ、徐々に蝦夷を懐柔していった。
安定して大量に収穫できる稲作は、多くの民を養うことができ、開墾地を広げるため、朝廷は技師を送りこみ、農業技術を伝えた。
同時に仏教をも広め、その思想は、土地神信仰の中に自然に根付いていった。
それらを受け入れることができず、山の民として生きようとする者らは、彼らの領地がおびやかされるにつれて、反乱を起こした。
開墾地には柵が設けられ、兵士が配されていた。
阿仁部落は周囲が山である。朝廷軍の侵攻はなかったが、仲間を見捨てることはできない。
陽と夢兎の血をひいた大巫女モレは、自ら日高見国胆沢に赴き、蝦夷連合軍のリーダーとなったアテルイに加担した。
780年、アザマロを中心とした蝦夷集団が反乱を起こすと、各地で小さな戦乱が再び生じ、朝廷は、坂上田村麻呂を将軍とした大兵団を組んだ。
アテルイ・モレの率いる軍は、胆沢に侵攻した朝廷軍を神出鬼没に撃退しかく乱したが、多くの部族はすでに朝廷の庇護を受けており、彼らが調停に当たった。
アテルイとモレは現状を踏まえ、
「仲間を降伏させるならば、ふたりの命、そしてみなの命は保証する」
という坂上田村麻呂の言葉を受け入れ、共に平安京に入った。
しかし貴族は、彼らを蛮族として恐れ、処刑を命じた。
802年、ふたりは処刑された。
ふたりの首塚は、大阪府枚方市にある。