それぞれの季節
銅像とスケッチブック (1980年12月)
「わたし、水平線を見たことがないの。」
彼女はポツリと呟くように言うと、瞳をいたずらっぽくいっぱいに開いて、窓の外のはるかな空を見ているようだった。
(これが、あの評判の悪い女の子なんだろうか。)
僕の前にふっと現れた彼女。
まるで以前に何度も会っていたかのように、初対面でも自然に話が弾んだっけ。
いや、弾んだと言うほどでもないし、それに初対面でもなかったんだ。
僕は、大学の5号館2階の教室を出ると、足の赴くまま、本館を抜け、4丁目の方に向かった。
彼女は僕のすぐ後ろを、ゆっくりと、伏し目がちについて来た。
「今日って、とても寒いわね。」
そう言うと彼女はコートの襟をさらに立てて、両足を揃えて軽く跳びはねながら、枯葉の散乱した砂利道に快い音を響かせた。
(そう言えば、今年の夏は例年になく暑かったような気がするな。)
彼女か・・・・・初めてあの正門横の銅像の前で逢った4月、彼女は紺のスタジャンにプレイボーイのトレーナー、膝上のタータンチェックのミニスカート、そしてハイソックスを程良く着こなし、小脇に大事そうにスケッチブックを抱えていた。
連れの女の子との会話が耳に飛び込んで来たのは、その時だったっけ。
「あのブラックの絵って、やっぱりわたし好きになれないわ。」
「キュービズムってやつね。何か、点と線の構成が固くて冷たい感じがするのよね。」
「もっと、知性で事物を捉えるんじゃなくて、マチスやルオーのように、感情で掴んだものを単純に、大胆に書いた方が、訴える印象として強烈に感じるわ。」
何やら僕には皆目訳のわからないことを話題にしていたその女に、同じ人間とは思えないくらい、その時嫌悪感を抱いたものだった。
彼女達が話しながら、僕の方を見ていたから、余計にかも知れなかった。
「でも、わたし、やっぱり美術大学に行った方が良かったのか、ずーっと迷っていたのよ。」
僕が後ろを確かめるように振り向くと、彼女は携えていたフォークナーの英文の本を、投げ捨てる真似をしておどけてみせるのだった。
作品名:それぞれの季節 作家名:sirius2014