死線
ホームに立つ人達の髪が揺れ、見慣れた銀色の列車が滑り込んできた。
まだ耳は使い物にならなくて、自分の吐息さえ聴こえなかったけれど、いつまでも此処に留まっているわけにはいかない。
でも、わたしは電車とホームの隙間を見つめながら立ち尽くしていた。
また何か奇妙なものが視える。
ホームの下からゆらゆらと上がる白い煙のようなもの。
だけど、それは煙じゃない。
隙間の闇から伸びているのは無数の手だ。
それは乗り降りする人の足を掴んで引きずり込もうと蠢いていた。
こんな異常な光景を目の当たりにしても、わたしの胸の鼓動は不気味なほど静まり返っている。
よく考えれば、これはそれほど驚くようなことじゃないのかも知れない。
いつもわたし達が乗っている電車のレールは血塗られている。そんなことはとっくに知っていた。さっきだって人身事故が起きたばかりじゃないか。わざわざ心霊スポットなんて行かなくたって、毎日のようにわたしは死の残像の上で生きていたんだ。
その手は人々の足を掴めずにいた。実体が無いんだから当たり前だ。「幽霊が生きてる人間に勝てるはずがねえ」というアイツの言葉を思い出す。そうなんだよね。人間が死んで強くなるなんてことは決してない。
他の人達は平然とした顔で電車へと乗り込み、ドアが閉まり始めたのでわたしも慌てて駆け出す。
亡者の手なんて無視すればいい。今までだってそうしてきた。
でも、わたしの足にははっきりと冷たい手の感触があって、ホームの下へと凄い力で引っ張られていく。
隙間の幅はそんなに無いはずなのに、あっという間にわたしの身体は腰のあたりまで沈んでしまう。
手を伸ばしても、誰も助けてはくれない。叫んでも、誰もわたしを視てはくれない。闇の中に見える頭を蹴り飛ばしても、その手の爪が足に喰い込んで離れない。
何事もなかったかのように、電車の扉が閉まっていく。
わたしの太腿にしがみついた男の顔は原形を留めていなくて、片方だけ残っている眼球も鈍色に濁っていたけれど、それがアイツだったらいいなと思った。
ホームの方から視線を感じて見上げると、赤い薔薇の花束を持った少女がわたしを見下ろしていた。
その虚ろな瞳にはなんの感情も宿ってはいない。だって、もう死んでいるんだから。
それでも「ごめんね」とわたしが呟くと、少女の身体に何本もの赤い線が走り、積み木細工のように崩れ落ちて本来の肉塊へと戻っていった。
薔薇の花弁が空に舞い、世界を赤く染めていく。