アカツキに散る空花
その涼やかな目元は半眼に細められ、冷淡な印象すら通り越して倦怠を漂わせる。高官だけに着用が許される服装の衣冠姿だが、冠は暑苦しいのか側に下ろして置かれ、袖は捲り上げられ、開いた襟元からは鞠玉のような胸が窮屈そうに谷間を作っていた。
そんな彼女は、面白い遊び道具がやって来たかのようにホオリへ悪戯な笑みを浮かべる。
「……ようやく来たか、ホオリ」
「ハッ! お待たせ致しました」
扇を煽ぎながらくたびれたように書類から顔を上げる彼女へ、ホオリは慇懃な敬礼をしてみせる。
楽にしろ、というホヒからの目配せを受け取って、ホオリも少し肩の力を抜いた。
「それで? 任務の方はどうだった?」
「……無事に敵を撃退しましたが、間一髪でした。僅差で被弾機が出ていたかもしれません」
渋面を作ってホオリが報告する。
だがホヒは微笑むと、厳つい外見をした短髪の男をマジマジと見た。
「お前の悪い癖だな。もし、の心配をしなくても、結果として全機無傷ならば上出来ではないか」
「ハッ。確かにその通りではありますが……」
「まあ……言いたい事は分かる。ここ数年、操縦士達の質は低下しているからな」
「……ハッ」
小さく頭を下げてホオリが同意を示す。
ホヒは頬杖を突いたまま溜め息を吐くと、諦めの混じった様子で目を閉じた。
「とはいえ仕方ない。あの『赤空の戦』から十年も経ち、最初の五年間は一度も戦闘が無かったのだ。……航空団全体の士気、質の低下は避けられんよ」
ホヒが遠い目をしてそう呟く。
だがすぐに表情を切り替えると、今度は不敵な笑みをホオリへ向ける。
「だが心配するな、朗報だ。英傑二人が数日後に着任する。かなり戦いは楽になるだろう」
「おぉ、それは……頼もしい事です」
言いながら、ホオリはふと何かに気付いて沈黙した。まさかここに呼ばれたのはそれに関する事……例えば英傑親衛隊にサクラ隊が選ばれるのでは、という予感だ。
そしてホヒは心を読んだように、にっこりと笑みを浮かべた。
●
「兄様っ!!」
日が昇り始めた朝、天野家の屋敷に天野 薙祇(あまの なぎ)の声が響き渡った。
ドタバタと騒々しい足音。ナギは一直線に、兄の私室の襖を開ける。
しかし板張りの部屋の中央、置き畳の上で寝具にくるまった部屋の主は一向に目覚める気配が無い。
そちらへ、ナギが飛びかかるように小走りに寄った。
「兄様! 兄様っ! 起きなさいませっ!! 表でヒヂニ様がお待ちなのですっ!! 早く、早く!!」
「ん……うん。えへへ……美味しい……」
「兄っ……」
寝ぼけてヨダレを垂らし、寝具の端に齧りつくナギの兄ムラクモ。
その幸せそうな表情を見て、焦っていたナギはキッと目を吊り上げた。
そして彼の寝具の端を掴み上げる。
「兄様、早く起きてって……」
「ん……もぐもぐ……」
「言ってるのですぅぅううッッ!!」
ナギが飛び上がるようにして両手を思いっきり引き上げた。
ムラクモは畳の上でゴロゴロと転がり、そのまま板張りの床へ落下する。
「ふぎゃっ」というカエルが潰れたような声がした。それからまぶたが三割も開いていないムラクモがノロノロと起き上がる気配があった。
「うぅ……料亭で大爆発が……」
「寝ぼけてないで、早くお着替えになるのです! 今日も基地へ行くのでしょうっ!? ヒヂニ様がわざわざお迎えに来て下さってますのですよ!」
「ん……うん……お好み焼き」
「……っ、兄様ぁあああ!!」
ナギが兄の寝間着に取り付いて、ぶんぶんと揺らす。
頭をガクガクと揺らされたムラクモは、ようやく夢から帰って来たようだった。ふいに両腕を思いっきり伸ばし、大きなあくびを一つする。
「ほぁ〜……ふぅ。わ、もうすっかり朝になってるっ」
「そうですよ兄様っ! これ以上ヒヂニ様をお待たせしてはいけないのです!」
「ん……ああ、ってもうそんな時間なの? 分かった。着替えるから部屋出てて」
「はいっ。ヒヂニ様のお相手をしてきますので、急いで来るのですよ兄様!」
ナギは来客を退屈させまいと応対のために外へ出て行く。三つも下とは思えないしっかり者だった。
入れ替わり別の人物が姿を見せる。
「……はて、何やらナギ様が慌てて出て行かれましたが……?」
頭頂部だけが禿げ上がった真っ白な頭をムラクモにむけ、怪訝そうに部屋に姿を見せたのは草爺(くさじじい)だった。
「あぁ、なんだかヒヂニの相手をしてくれるんだって」
「さようでございますか。――それより、ムラクモ様」
ずずいっと歩み寄り、老人が顔を近づける。豊かな眉の下に隠れた小さな目が、険しくムラクモを見据えていた。
「明日にも本格的な訓練が始まるそうですが……もう絶っっ対に先日のような失態を犯してはなりませぬぞ」
「あはは……分かったよ、ごめんって草爺」
ムラクモは苦笑しながら鼻息荒くする草爺を押し返して頷く。先日の失態、とはもちろん、選定の儀の退室時で皇女へ声を掛けた事だった。
ムラクモにとってはちょっとした事であるその行為は、しかし名門天野家の名を失墜させるのには十分な破壊力があったらしい。ムラクモの目付け役であり教育係である草爺はその事を大いに嘆き、事あるごとにネチネチと責めるのだった。
「それじゃ、表でヒヂニが待ってるから!」
逃げるように、土色の質素な布衣に着替えたムラクモは部屋を出て、草爺の追撃をかわす。背後で「ムラクモ様ぁ!」と呼ばれた気がしたが聞こえない振りをした。
ふと駆け足で廊下を渡っている途中、向こうから母の天野 狭依(あまの さより)が包みを持ってやってくる所だった。
彼女はムラクモを見て安堵の表情を浮かべる。
「ああ、どうにか間に合ったようですね。ムラクモ、お弁当ですよ。どうぞ持って行きなさい?」
「ありがとう、母上! 行って来るね!」
「ええ。お気をつけなさいな」
包みをすれ違いざま受け取りながら、ムラクモはおっとりと笑顔を浮かべる母に手を振った。
それから草鞋を履いて屋敷を出ていく。途端に夏の強烈な日差しが襲い掛かり、目元を覆った。
顔を門の方へ向け、大きく手を振る。
「……っ、ヒヂニー!」
視線の先で、黒い馬に乗っていた青年も同じく手を振り返していた。
選定の儀を終えてから、はや三日。
ムラクモとヒヂニは航空団の正式入隊のために諸部署を回り、ようやくの事でこの日の夕方に諸々の手続きを終えたのだった。
日々の訓練を終えた暁航空基地は茜に染まっている。馬に乗った人達が鮮やかな赤みを背に受けて帰路についていた。
だが基地の一角、巨大な格納庫の中では……いまだに騒々しい声と音が響き渡っていた。
「……まだだな。右手制御球の感度をもう一段階上げてくれ」
紺青の小型天衣、《ツクヨミ》の操縦席にヒヂニは座っていた。
機内の横壁へ両腕を挿入し、両足は正面の状況ディスプレイ下へ。操縦架と呼ばれる円筒形の装置に両手両足を固定されたまま、濃緑色の状況ディスプレイを見つめる。
画面一杯には薄く「幸」という漢字が表示され、その上に重なるように簡略化された天衣図と各種データが表示されていた。
ふいに、画面下で「言霊」という文字が点灯する。