アカツキに散る空花
だがその作戦に参加していたのは自分では無かった。当時まだ五歳の自分が、天衣になど乗れようはずが無い。
しかし、ならばこの怪物が間違っているのは――。
「父上の事か……?」
「――チチウエ――?」
怪物が繰り返した後で、突然闇に笑い声が弾けた。
「……っ」
鼓膜が痺れる。何百に聞こえたそれは、しかしたった八個の首の笑い声に過ぎないらしい。
「――道理デ話ガ通ジヌワケヨ――。ソウカ、アレハオ前ノ父親カ――!」
愉快そうに叫ぶと八首龍鬼はまた笑い出す。
その間、ヒヂニはただ唖然としていた。
「――同ジ宵闇ノ神気ガ匂ウモノダカラ、気付カンダワ――」
そこまで言われて、ヒヂニはその首の一つ、正面の赤い両目を睨みつけた。
「……俺を殺すつもりか」
言いながら、ヒヂニの背中に冷たい物が滑り落ちていく。
……自分の父がこの怪物に会ったとして、そこには戦闘行動以外の関係は生まれない。
そしてそれを十年間も覚えているという事は、八首龍鬼はよほど痛手を負わされたのだろう。そして今のこんな状況は、意趣返しに絶好の機会だ。
だがその上で、ヒヂニは気丈に眼前の魔物を睨み返す。
それがヒヂニにできる、英傑としての最後の矜持だった。
「――クックック、サスガハアノ者ノ子ヨ――。ソノ胆力も、大シタモノダ――」
「……悠長に御託を抜かしているが。俺もただでは死んでやらんぞ……?」
ヒヂニは目立たないよう、手探りに近くに落ちていた破片が掴む。
だが八首龍鬼は全く殺意など無いように、首を引いてみせた。
「――案ズルナ。オ前ヲ害ソウナドト思ッテオラヌ――」
「化け物のいう事など、到底信じられん」
「――ソウカモシレヌ。ダガ我モ決シテ恩知ラズデハナイノダ――」
「……恩、だと? なんの話だ?」
およそこの場にはそぐわない言葉が飛び出し、ヒヂニは当惑した。
ふいに、八首龍鬼の笑みの様子が変わる。さらに禍々しくおぞましい笑みへと。
そして魔物は、甘い誘惑を口にするように――ヒヂニに囁いた。
「――オ前ノ父ニ、救ワレタ恩ノ事ダ――」
「……なに?」
無理矢理に興味を惹かせる意味深な言葉。
しかしそれは、不吉な予感しか想起させない。
なぜかヒヂニは途端に喉が渇いていくのを感じた。
「……待て、八首龍鬼。何の……話をしている? 父上が……貴様を救った、だと?」
「――ホウ、子ニスラモ伝エテオランノカ――? ナラバ、我ガ教エテヤロウカ――」
「何を……だ」
聞き返すその声が、震えていた。
八首龍鬼は一瞬の沈黙の後でゆっくりと、言葉を紡いだ。
「――赤銀ノ神守ヲ撃墜シタ、オ前ノ父ノ話ダ――」
怪物が発したその言葉は、ヒヂニの思考を止めた。
それからゆっくりと動き出した頭が、その言葉の意味を少しずつ噛み砕いてゆく。
「父上が、ハバリ様を、殺した……話……?」
その声は掠れていた。自分でも聞き取れないほどに。
「……――嘘だ」
「――クックック。信ジラレヌカ? ダガ、真実ダ――。
――コノ八ツノ首ヲ消シ飛バサレヨウトシタ時、我ヲ救ッタノハ、オ前ノ父ダッタ――」
「黙れ、化け物め――!!」
ヒヂニは反射的に手の中の破片を投げつけていた。
だが八首龍鬼は避けようともしなかった。厚い皮膚が欠片を弾く。
構わずヒヂニは叫んだ。
「何が真実だッ! 俺は惑わされんぞ――!! 父上を信じる! 尊敬する父上の、英傑の誇りをッ!!」
「――英傑? ……クックック、オ前ノ父モ、案外ソンナモノニ呪ワレテイタノカモナ――」
「ちっ、回りくどい言い方はやめろ……何が言いたい!?」
苛立ったように訊くヒヂニ。
それに、怪物は何でもないように答えた。
「――邪魔ダッタノダロウ。血ノ薄レタオ前ノ一族ニトッテ、赤銀ノ神守ハナ――」
「ッ……血が薄れただと!? 侮辱するな、何を根拠にそんな事が言えるッ!」
叫び返すと八首龍鬼は首を傾げた。嫌らしい笑みを浮かべながら、ヒヂニの眼前に首を近づける。
「――哀シキカナ、何モ知ラヌ人間。タダ長ク存在スルダケノ我ヨリモ、記憶ノ歴史ハ劣ルカ――。恩モアル、オ前ハ自分ノ巣ニ帰シテヤロウ。ソコデ全テヲ見届ケテクレバ良イ――」
「……俺を暁に帰すと言うのか? ならば俺は、必ずこの亀裂を塞ぎに戻って来てやるッ!」
「――ソウカ。オ前サエ望ムナラ、ソノ時ニ他ノ鬼ドモガ亀裂カラ出ルノヲ、止メテヤッテモ良イゾ――?」
余りに予想外の言葉に、ヒヂニは言葉を一瞬詰まらせた。
「何だと? ……さっきから聞いていれば、訳が分からん……。貴様は何が望みなのだ?」
魔物の目的が全く分からない。
自分を暁にまで送り届ける上に、亀裂を塞ぐ事に協力しても良いという。ヒヂニの混乱はとうとう頂点にまで達していた。
「――ナニ、大シタ事デハ無イ。宵闇ノ子ヨ――」
そんなヒヂニへ、ふいに八首龍鬼は声を変えて秘め事をするように囁く。
「――太陽ノ神気ヲ振リマク、アノ神守ヲ落トセ――」
ヒヂニは唾を飲み下すのに、数瞬の時が必要だった。
「それはつまり……ムラクモを撃墜しろという事か?」
「――ソウダ。アノ憎キ血ガ途絶エレバ我ハ地上ニ用ナド無イ――。
オ前ニトッテモ悪イ話デハ無イハズダ。ソレホドノ実力ヲ示セバ、カノ国デ真ノ英傑ト認メラレルノダカラ――」
「鬼らしい腐った思考だな。だがそんな取引に乗れるわけが無い! ……返答は、否だ!!」
「――ソウ急グナ。モウ少シ考エル機会ヲ与エヨウ――」
まるでヒヂニが否定するのを見透かしていたように八首龍鬼は即座に言い放った。
「――次ニ我ノ前ニ姿ヲ現スマデニ、アノ神守ヲ落トシテイレバ契約成立トシヨウ――」
八首がそう言うと同時、周囲から何かの気配が押し寄せた。
操縦席が鋼鉄の軋む音と共に傾き、ヒヂニを揺らす。だが彼はその中で毅然に八首龍鬼を睨み据えた。
「考える機会など必要は無い。……俺はきっと、貴様を殺しに来る」
「――クックック。……巣ヘ帰ルガヨイ、人間。オ前ノ真実ヲ見極メニナ――」
直後、人型の鬼が操縦席に乗り込むなり拳大の石を振り下ろす。一瞬の激しい痛みと共にヒヂニの意識はそこで途切れた。
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『神生祭』の三日目。街はいま歌と踊りと騒ぎ声で最も盛り上がりを見せていたが、それに変わらぬ混乱が暁宮でも起こっていた。
死亡したと見られていたヒヂニが、黄泉近神社に気絶した状態で現れたのだ。
「……ちっ」
緊急会議の面々の端で、ハヤタチが口の中で舌打ちをした。ヒヂニに帰ってこられては目論見が破綻しかねない。
だが彼の父であり現十津当主のアドウはよりしたたかだった。彼はむしろ、安堵の表情さえ演じてみせる。
そして、ふいに眉をひそめるのだった。
「しかし、……面妖な話。ヒヂニ様は鬼に担がれて帰ってきたとか。一体どういう事でございましょうな、それではまるで……」
と、そこまで言って言葉を濁す。不吉な想像を掻き立てるように、たっぷり余韻を残して。
それからふいに、神妙な口調で議題に話を戻すのだった。